【前回の記事を読む】「天下太平日々是れ好日、世はなべて事もなし」 天賀太平二十三歳、若き侍。その手に持つのはもちろん刀…ではなく釣り竿!?

第一章 いずれあやめかかきつばた

太平、子供の頃はのべつ幕なしに一日中を喋り続けていた。

寺小屋の庭の柿の木にたわわとなった実を見て。

「うわあ、おいしそうです。でも柿の枝は折れやすいって言いますからね。あ、そうです。ええ、台所の横に梯子がですね」

そこで師匠に頭をぺちんとはたかれた。

「太平、あれは渋柿や」

その時には心底驚いた。師匠ともなると人の心まで読めるのかと。

「だってですよ。まさか自分がしゃべっていたなんて思わないじゃないですか」

それ以来、人前ではそれなりに気をつかっているのだが、太平のまわりでは「太平の一人言」それで通じるし、口の悪い連中には「太平の寝言が始まった」ですまされる。

堀留にさしかかると、対岸には紫の花が列をなして涼やかに咲いていた。

「わあ、きれいですね。ええ、いずれあやめかかきつばた。あれ、どっちでしょう? 確かあやめは陸に咲いて、かきつばたは水辺で、あれ、逆でしたっけ?」

確かに教わった。それは覚えているが中味を忘れた。仕方ない、十年も昔の話だ。

「ええ、十年経っても分からないという事は、これはもうどちらでもいいという事です。あ。だから、いずれあやめかかきつばた、なんですね。あれ、菖蒲は?」

花の名で悩むのはそこでやめにした。何といっても、今日は五日ぶりの釣りなのだ。

「ええ、実に久しぶりの釣り日和りです」

普通なら五日ぶりで充分だろうが、太平には、実に久しぶり、となる。太平は天気さえ良ければ毎日だって釣りに出たい。その日が月夜なら一晩中だって釣っていたい。

「ええ、潮止まりでお魚が動かない時に寝ればいいんですから」

そんな太平にとって釣り役は正に天職と言う他はない。だが太平は釣り役天賀家に生まれた訳ではなく、養子である。そして太平が天賀家の養子となるまでには、偶然と早とちりと幸運。そして、命がけの修行があったのだが、それはもう少し先でのお話。