「ええ、乗っ込みには行きました。だって、いよいよですもの」
黒鯛は、冬は暖い深場で過ごす。そして春となり、水温が上がるとともに浅場に移り、産卵に向けての荒喰いを始める。それが乗っ込みだ。
乗っ込みが始まれば黒鯛の季節の到来となり、磯釣り師の、冬までの一喜一憂も始まる。
「でも、まだ体が薄いんで三枚でやめました。ええ、もっとふっくらしてきた頃に釣ろうと思います」
太平は釣りと同じくらいに食べる事も大好きだから、おいしくない魚は釣りたくないのだ。
「おや、新しい竿ですか?」
太平が竹刀袋から出した竿を見て、ご隠居が身を乗りだす。
「はい、天気が悪かったので竿をいじってました」
春の嵐の名残りのような強風が、ここ何日か吹き荒れた。
強い風は釣りの天敵だ、雨より悪い。風は波を呼び、舟はもちろん、磯だって危険となる。大きなヨタ波に襲われれば命の危険ともなる。それで、釣りをあきらめて竿を作り始めた。
竿作りは、義父釣雲の影響だ。
釣雲は江戸生まれの江戸育ち。殿様のお供で江戸に行っていた天賀家の先代が、釣雲の釣りに惚れ込んで養子に口説き落とした。
そしてその腕に惚れ込んだ太平が、釣雲の弟子となり養子となるのだが、それはもう少し先での話。
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