序章

大きく沸(わ)き立つ波頭を切り裂き、獲物目がけて疾駆する船。

「なぜ備えぬ!」

その船の中で石動 (いするぎ)は怒(いか)っていた。あの船にとって我々は迫り来る嵐に他ならない。あの時、我々を見た時に動いていればこの海なら逃げおおせたはずだ。

だが、今にいたるも動かず、まだ、釣りを続けている。

「それほど釣りが大事なら、三途の河で好きなだけ釣るがよい」

石動の腹がようやく定(き)まった。

白く泡立つ渦の中になす術(すべ)もなく立ちつくす船。その船の舳(へさき)に立つ太平も怒っていた。

「ええ、ただ釣りをしているだけの船に、まるで嵐のように襲いかかる。ええ、まったく許せません」太平の目に、怒りと涙がにじんでいく。

「後二つで鼻を擦(す)ります」櫓を漕(こ)ぐ勇次(いさじ)が告げる。

「うむ」勇次の言葉に、石動が短かく答えて鯉口を切る。

「ええ、人が人にこんな事をしちゃいけません。はい、ごめんなさい!」

太平が大きく叫んで、涙とともに男目がけて、日頃愛用の漁師刀(まかり)を放った。狙いは船を漕ぐ男だ。殺す気はない。刺す気もない。漁師刀には鉄線入りの紐がついている。男の横をすぎる漁師刀を紐でよんで男の首に巻きつけて海に落とす。

「むん!」石動が立ち上がりざまに、裂迫の気合とともに腰の刀を抜き上げる。

「ばつん」わずかに遅れた刀は飛来する刃物ではなく、それにつながる紐を断ち切っていた。

「カッ」太平の放った刃は、乾いた音とともに虚しく船床に突き立っていた。