第一章 いずれあやめかかきつばた
一
夏、五月——
青く澄み渡った空に、ぽっこりと白く浮かんだ雲が、二つ三つ、のんびりと流れていき、ときおりに燕(つばめ)が、ひょいっ、ひょいっと、白く黒くよぎっていく。
「はい。天下太平、日々是れ好日、世はなべて事もなし。ええ、まったくその通りです」
太平の、機嫌のいい時の口癖が飛び出した。太平の機嫌はほぼ天気に直結している。だから言葉そのものに大した意味はない。『今日は天気が良くて嬉(うれ)しいな』そう言っているにすぎない。
天賀太平二十三歳。花房藩五万三千石で釣り役を勤めている。東海道を桑名で折れて伊勢街道を進めば海堂藩三十三万石となる。その海堂藩の隣、伊勢神宮まで半日ほどのところに花房藩はある。
伊勢の海を望む、実成りも豊かで海の幸にも恵まれたのどかな藩だ。だからこそ釣り役などという呑気なお役を誰も不思議と思わないのかも知れない。
花房藩釣り役天賀家は百三十石三人扶持(ぶち)に猫二匹扶持、家格としては中士となる。
太平、城下ではけっこう有名人だ。特に釣り好きの間では天賀太平よりは「天下太平」、あるいはただ「太平」、それで通っている。これはさっきの太平の口癖と、釣り役という聞くからにお気楽そうなお役のせいでもある。
もう一つの通り名が「へのへのもへじ」、縮めて「へのじ」である。こちらは顔から来ている。
太平、丸りとした童顔に目がくりっとしていて、まるで何かに驚いた赤ん坊か仔犬のような顔だ。へのへのもへじの「の」の字を丸っぽく書いて、ついでに外の「じ」の字を丸っぽく書けば太平の顔となる。
しかも太平、たいていは機嫌が良くて、釣りとうまい料理の事を考えれば、すぐにのの字もへの字となって、へへへへのもへじができあがる。
薄青の稽古着(けいこぎ)に紺の稽古袴、右肩に竹刀(しない)袋、左手に道具袋を提げた太平の姿は、剣術の稽古に向うところとしか見えない。だが竹刀袋の中には釣り竿が、道具袋の中には面、籠手(こて)ではなく、釣り道具の一切が入っている。
太平、お役の時以外は一年中をほぼこの格好ですごす。天賀家の家格だと、当主は外出の際には羽織袴で大小を帯び、小者を引きつれねばならない。だが稽古着だったら竹刀が刀の代わりと言い訳がたつ。
「ええ、羽織はともかくですよ。刀は危なすぎます」刃物としての危険ではない。「重いし長すぎます。足場の悪い磯でですよ、もし大物がかかったらどうします? わあって退がったら岩があってですね、それに刀がぶつかったら、うわっ、きゃ、どぶん、ですよ。ええ、あんなに危ない物はありません」
稽古着だったら竹刀が刀の代わりと言い訳が立つ。もっとも太平の場合は、刀の代わりの竹刀の代わりに釣り竿が入っているのだが。
「ええ、脇差はかまいません。大物が釣れた時には包丁の代わりになりますから。ええ、だってですよ」
太平の話している相手は太平だ。思った事が口に出て、それに自分で答えている。要は一人言だ。
👉『花房藩釣り役 天下太平 五月の恋の吹きながし』連載記事一覧はこちら
【イチオシ記事】マッチングアプリで出会った男性と夜の11時に待ち合わせ。渡された紙コップを一気に飲み干してしまったところ、記憶がなくなり…
【注目記事】服も体も、真っ黒こげで病院に運ばれた私。「あれが奥さんです」と告げられた夫は、私が誰なのか判断がつかなかった