【前回の記事を読む】「あ、あの竹。竿になりたがってます!」飛び上がって、壁に立てかけられた何十本かの竹のうち一本を手にすると…

第一章 いずれあやめかかきつばた

「あれ、初めてのお方ですね?」

いつもならご隠居のいるはずの柳の木、その少し先の小さな桟橋の上に、見るからに大きな男が竿を出していた。

腰に大小があるから武家に間違いない。だが、笠の影からもはみ出す大きな顔は一面に髭でおおわれていた。

武家ならば髭は生やさない、隠居をしたか浪人か。着物も袴も、地味ではあるがかなりの上物と見えた。もちろん太平ではなくご隠居の見立(みたて)だ。太平に着物の良し悪しは分からない。太平に分かるのは、着ているかいないか、そこまでだ。

背筋を伸ばし、竿尻を左手で握り右手を軽く添えて、竿を正眼にかまえたその姿にはまったく隙がない。今にも「面えーん」と一本を打ち込みそうだ。

「あ、いけませんね。ええ、まったくなっちゃいません」

その男は下駄を履いていた。魚は目敏(めざと)く、そして耳敏い。床机(しょうぎ)に座って動く気のないご隠居だって雪駄にしている。

「もう半刻ほど(約一時間)もあのお姿です」

ご隠居たちがきた時には、すでにその形だった。それでいつもの場所はあきらめた。髭もじゃの大男、しかも二本差しと来ては、あまり近くにはいたくない。

それから半刻、男は同じ形のままでいる。同じ姿勢を続ける。それがどんなに大変な事かは、ご隠居も伊兵も良く知っている。素人だったら小半刻(約三十分)ももちはしない。

「足は時々入れかえてます」

伊兵が告げる。体が固まらぬように足を入れ替え、体もそれなりに緩めているのだろう。

「よほどの鍛錬を積んだお人やないとああはいきません」

ご隠居も、自分の浮子よりもその男をついつい見てしまっていた。

「なぜ、教えて上げなかったんですか」

太平は武芸なんかに興味はない。ただ、あのままでは絶対に釣れない。それは断言できる。

「いえ、それがですね」

ご隠居も見かねて、桟橋まで行って声はかけたのだ。

 

「あのう、お武家様。それですと」 釣れませんよ、と言う前に、「無用」と一言言われた。「ですが」と重ねたところで、振り向いた男に、「ぎろり」と一睨(にら)みされた。

笠の陰の中からぎょろりと光る大目玉。その眼光の物凄(すご)さに、後の言葉は呑み込んで戻ってきた。次に何かを言って「無礼者!」と、手討ちにでもされたらたまらない。

「触らぬ神に祟りなしですわ。あ、太平さん」

すでに太平は男に向かって歩き出していた。

「はあ」

その後ろ姿に、ご隠居が溜め息をつく。

「仕方ありません。太平さんですから」

伊兵が玉綱を手に取り、綱を外して柄だけにする。もし、男が「無礼者」と刀に手をかけたら太平を弾(はじ)いて堀に落とす。その後は出たとこ勝負だ。柄には鉄芯が通してあるから、刀とも良い勝負ができるはずだ。

「こんにちわぁ」

太平が桟橋の中ほどに自分の竿と道具袋を置いて、突端にいる男に向かって声をかける。

「うむ」

男が振り向いて太平を「ぎろり」と睨んだ。

その若者が、少し前に声をかけてきた老人と親し気に話した後でこちらに向かったのは目の端で捉(とら)えていた。「近づく者、動く物はすべて敵と心得よ」剣の師の言葉だ。だから常に、回りへの目配り、気配りは欠かさない。