男の名は石動(いするぎ)格之進という。

この地より南の某藩で、港奉行という要職にあった。だが、一と月ほど前に起きたある事件のせいでその役を解かれ、藩を遂われ、今は家族とともに旅の中にある。

「釣れますかあ」

そののほほんとした声が実に腹立たしい。石動は、昼日中(ひなか)から釣りに興ずるような若者が大っ嫌いだ。道場に向かう途中、そう見えたが竹刀袋からは竿が出てきた。家族をあざむいてまでも釣りをする馬鹿者、そうとしか思えない。

こちらを釣りの素人と見て何か講釈でも垂れにきたのだろうが、こんな手合に教えを受けるくらいなら釣りをやめた方がましだ。どうせ釣りも好きじゃないのだから。

それで、今度は本気のぎろりで睨みつけた。ただでさえ厳(いか)つい顔の石動がその大目玉を剝いて睨みつければ、たいていの人間は目をそらせて立ち去る。

だが太平は石動の目なんか見ていなかった。石動の後ろにしゃがみ込んだ太平が見ているのは、竿であり、糸であり、そして水の中だった。

「釣りたくないのですか?」

太平が石動を見上げながら、不思議そうに聞いてきた。

「はい、釣りたくないのなら何も申しません。釣りたくないけど竿を出す。ええ、そういう人もいるそうです。まったく理解できませんけど、理解できなくても否定しちゃいけません。ええ、虎沢先生にそう教わりました。あ、虎沢先生はとても絵がお上手(じょうず)でして」

子供の頃だったら、話はさらにあちこちに飛び火して、野火のごとくに野原を焼き尽くすところだが、太平も今は大人だ。

「釣りたいのですか? 釣りたくないのですか?」

「うむぅ」

もちろん釣りたい。だから一刻以上も竿をかまえているのだ。だが、昼間っから釣りをするような若僧に教えを乞う気はない。

 

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