【前回の記事を読む】寝込んでいる彼女が体を起こして、近くまで来てくれた。「ごめんなさい、お邪魔ですか?」嬉しくないはずもなく…
第一章 鯛のしゃくり釣り
三
太平の母のお凜様は、食べるのも作るのも大好きだった。もっとも、普段の料理は女中に任せて手は出さない。
燃えないのだ。だが、外でおいしい物、珍しい物を口にすると一気に燃え上がる。そしてその味の再現に、無謀かつ勇猛果敢に挑戦する。
お凜様は自分の舌に自信を持っている。だが太平のように、一度口にした味は忘れない、とてもそこまではいかない。
それで曖昧なところは、柔軟かつ奔放な想像力でおぎなう。
「ええ、あのぴりっとした味は八角に間違いありません。残念ながら我が家に八角はありません。太平、山椒っ!」
誰かに買いに行かせて待つ。それがお凜様にはできない。
もっとも、買いに行かせても無駄だ。そもそも八角は使われておらず、あのぴりっとした味はまさしく山椒だったのだから。
凛々しくも白鉢巻に白襷(だすき)のお凜様が、太平の持ってきた粉山椒を「えいやっ!」と豪快に鍋に放り込む。
「あ、お凜様、入れすぎです。山椒は一つまみずつ味を見ながらですね」
太平、松風で料理を覚え始めた頃だった。
「えーい猪口才(ちょこざい)な。男が何を小賢(こざか)しい事を、ん、む、ぐ」
お玉一杯を豪快に飲み干したお凜様が目を白黒させる。
「太平、水!」「砂糖!」「蜜!」
「はいっ」「はいっ」
太平がこま鼠のごとくに台所を駆け回る。
「甘い! 醤油!」「辛い! 水!」「味醂!」「お鍋!」
最初は小鍋で作っていた物が、最後は大鍋にいっぱいとなっていた。
「昨日松風でいただいたお料理、とてもおいしかったのよ。これから太平のために作ってあげますね」
「うわあ、楽しみです!」