「一度、だけですか?」百合が思わず聞き返した。
あの、丈夫の塊のような石動だって三度ほどは寝込んでいる。
「はい、本当にひいたんです」そこは譲れない。
誰かが「馬鹿は風邪をひかない」と言うたびに「私はひいた事があります」と胸を張ってきたのだ。
生まれて初めて寝込んだ太平を見て、お凜様の眠れる母性が一気に燃え上がった。
しかもこの頃には、八角やら枸杞(くこ)やらの薬種も色々と揃っていたから、実に不思議な色と異様な臭いを放っていた。
「食べようとは思うんですけど、体が受け付けないんです。ええ、病気のせいで舌と鼻がおかしくなっていたんでしょうね」
いや。太平の舌と鼻は、必死で自分たちと太平を守ろうとしていたのだ。
でも、このまま何も食べないでいたら死んじゃう。子供心にもそう思って、熱で朦朧(もうろう)としながらも台所に向かった。
幸いな事に、お凜様は自分の部屋でぐっすりと眠っていた。
「それでこの生姜湯を作っておじやにしました。ええ、とてもおいしくてお鍋が空になっちゃいました」
そのまま台所で幸せに眠り、人の気配で起きた時には、風邪もけろりと治っていた。
「おやまあ」
病いで舌と鼻が変る。その言葉が百合には身につまされる。鈍くなる感覚もあれば、鋭くなる感覚もある。
魚の生臭さ。百合の体はそれを受けつけなくなってきている。
鯉の生き肝は薬だと思って飲みくだすが、五月の作る味噌汁ですら生臭く感じる時がある。
「これは、お出汁は取ってないんですね」
「やだなあ、百合様。お出汁を取ったらお味噌汁じゃないですか。これはですね、生姜湯のお味噌仕立て、隠し蜂蜜なんですから」
百合の変調に気づいた訳ではなく、単に自分が病気の時においしかった物を作った。それだけのようだった。
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