【前回の記事を読む】新婚旅行でイタリア・フィレンツェへ。ジオットの塔から町を一望した妻は、「案外小さな町なのね」と…
第一章
花の聖母大聖堂
九月六日
同じく大作のレオナルド・ダ・ヴィンチ作の『受胎告知』も寓意に満ちた絵だ。
この絵はレオナルドが二十歳の時の作品である。聖母の顔は少女のような初々しさがある反面、表情が固い。天使の持つ白百合は聖母の純潔を表す。だがこの絵はどこかアンバランスな印象を与える。聖母の体型もアンバランスだ。
ボッティチェッリの描く女性たちもアンバランスだが、ボッティチェッリは敢えて自分の美的基準に沿って描いている。
しかしこの絵のレオナルドはリアルに描こうとしながら成功していない感じである。天使の羽は体との比重を考えると、実際にはとても飛べそうではないが、奇妙なリアリティーがある。
明らかにレオナルドはこの絵のために鳥の羽を克明にデッサンしたに違いない。後年彼は空を飛ぶ機械を設計するべく、鳥を自ら解剖している。
〝重点的に〟とは言っても気になって素通り出来ない絵もあり、真世の見たい絵にも付き合って、二時間半を館内で費やし、忠司はさすがにこってりとした〝牛の胃袋のフィレンツェ風煮込み(トリッパ・フィオレンティーナ)〟をたっぷり食べた気分になった。
後十年はキリスト教美術を見なくてもいい――彼の率直な感想だが、これがほんのイタリア・ルネッサンス美術史の門口に立ったに過ぎず、この旅が終わるころにはいっぱしの〝美術通〟になる運命だとはその時は夢にも思わなかった。
美術館を出ると裏通りに出た。脇にあるカフェを回って川の方へ戻り、川の縁の欄干に出た。二人は欄干にもたれてアルノ川にかかるポンテ・ヴェッキオを通して傾きかかった太陽を眺めた。真世は感に入ったようにつぶやいた。
「ああ、何て幸せ……やっと憧(あこが)れのフィレンツェに来たって実感出来る」
二人は遠くまで続くアルノ川の流れを見つめた。
「アルノ川にかかる橋のたもとでダンテは永遠の女性、ベアトリーチェと出会ったんだ」
「ロマンチックね。あのポンテ・ヴェッキオのたもとで?」
忠司は首を振った。