【前回記事を読む】イタリアのスカラ座で『仮面舞踏会』の主役アメリアを歌ったことがある先生。オペラよりもドラマチックな事実を聞き…

第一章

ミラノのポンテッジ

ボリスは私のアパートの前で車を止めた。私が車を降りようとすると彼は急に私に頼みがあると言った。

「自宅に鞄を取りに帰りたいんだが、これから人と会うことになっていて、時間がない。代わりに君に鍵を渡すから鞄を取ってきてくれないか」

彼は腕時計を見て本当に急いでいるらしかった。彼のアパートというのは私の住んでいるところからほんの三ブロックのところで近かった。彼が会う約束をしている人物はミラノ駅の近くで待っていて、大事なビジネスの話なので遅れるわけにはいかない。

「駐車場に車を入れなければならないから約束の時間ギリギリだ」とまた時計を見て言うのだ。

「僕は人と会ったらまたストレーザに戻るので時間がない。鞄は大きくないし、中には何も入っていないから軽い」

彼のアパートは車ですぐのはずだ。それにストレーザからミラノへ戻るドライブの間、彼は一向に急いでいる風ではなかった。自分で取りに行けばいいものを、急にそんなことを言い出すなんて、その時間もないほど急いでいるのか? 私は奇妙な違和感を覚えた。

「でも私、今夜はストレーザに戻らないわ」

「僕がストレーザに戻る前に君のアパートまで取りに行くから」

やけに熱心に頼み込むので仕方なく、「いいけれど私も夜、人と会うので時間を守ってほしい」と言うと彼は了解した。

彼の言う通りボリスのアパートは、私のところから歩いて十分くらいの同じ歴史地区にあった。車なら五分の距離だ。彼はその部屋を三か月契約で借りたという。

でもそこに行くと、建物は工事中だった。外壁の塗り替え中らしく工事用足場(ポンテッジ)が組まれていた。日本と違ってイタリアでは工事用足場の会社は建設会社とは別で、ポンテッジの上に会社の名前を表示している。会社の名前は“メラーニ”、しかも夏休みに入り、職人が休みを取っているらしかった。

私はアパートの入り口の足場をくぐってアパートに入り、エレベーターでボリスの部屋の階に着いた。借りた鍵で部屋に入るとタッパレッラ(イタリア式雨戸)が降りていた。ポンテッジのせいでアパートはタッパレッラを下ろさなくても薄暗かった。

部屋の中には家具が置かれ、きちんと整頓され、掃除も行き届いていた。どうやらこの部屋は家具付きらしい。ミラノには外国人相手の家具付きの賃貸アパート物件が結構ある。