ボリスに頼まれた鞄は言われた通り、入り口のとっつきにある洋服戸棚の上の段にあり、すぐに見つかった。
イギリスの有名ブランドの四角い鞄で、ベージュの地によく知られた茶色と赤のチェック模様、取っ手はしゃれた革製である。でも戸棚に服はなく空っぽだった。短期とはいえこんな部屋を借りているところを見ても、ボリスはやはりお金持ちに違いない。
それにしても、なぜボリスが私に鞄を取りに来させたのか分からなかった。ストレーザからのドライブの間中、彼は一向に急いでいる様子はなかったし、車で来れば私がわざわざ歩いてここまで来るよりよっぽど早いではないか? 本当に五分も掛からない。
私がアパートを出ようとすると入り口で見馴れない男に捕まった。
髪が赤く、黒いTシャツにジーンズ姿、手首に刺青があり一見ドラッグ・ジャンキー風。でも体はたくましく薬物中毒には見えない。何者か名乗らず、正体不明だ。男は私に「ボリス・スミルノフに会いに来たのか」と尋ね、何も答えずに黙って見返すと「ボリスは部屋にいるか」と重ねて尋ねるので黙って首を振った。
更に名前を聞かれたが、答えなかった。すると男はにやりとして「どうせすぐに分かることだ」というので私は気味が悪くなった。私は男を適当に振り切って足早にそこから立ち去った。途中何度も後ろを振り返ったが、男が後をつけてくる様子はなかった。
夕方約束通りボリスは鞄を受け取りに来た。ボリスのアパートに妙な男が張り付いていたと言うと、ボリスは顔色を変えた。
「ロシア人だったか?」
「いいえ、イタリア人だったわ」
「何か聞かれたか?」
私は首を振ってほとんど口はきかなかったと言った。ボリスはその男の見掛けや特徴を知りたがり、本当にロシア人ではなかったのか、重ねて聞いた。そしてその男につけられなかったかと聞いたが、私は首を振り、「大丈夫だと思う」と答えた。ストーカーならともかく、誰かが私なんかをつけて何の意味があるのかさっぱり分からない。
ただ赤毛の男が「すぐに分かる」と言ったことは妙に引っかかった。ボリスは眉をひそめ、かなり真剣に考え込んでいる様子だった。
私はボリスに「自分の部屋にいられないのは工事中のポンテッジのせいか」と尋ねた。
ボリスは首を振り、「工事中でなくてもあそこは物騒で危ない」と言った。
試し読み連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。
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