【前回記事を読む】複雑な事情から母国ロシアから逃げてきたボリスのことを私は能天気な正体不明の居候と決めつけることはしなくなった

第一章

ミラノのポンテッジ

私はアンナ先生の母校、ミラノのヴェルディ音楽学院に籍を置き、アンナ先生のレッスンとは別にそこで発声法を勉強している。教授の名前はマダム・ミシェル・マルソー、フランス出身で音声学のイタリアでの第一人者である。私の勉学環境は恵まれていると言わねばならない。でもマダム・マルソーは基本練習ばかりで、中々歌までは歌わせてもらえない。

私は日本の音大では違った発声法でやってきていて、そのせいか基本をガンガン直され、練習曲しか歌わせてもらえないのは正直言って気分が滅入る。私はアンナ先生のやり方の方が好きだ。そんな話をミラノに向かう車の中でボリスに漠然と話したと思う。

ボリスも自分のことを話した。彼はコンピューターのソフトウエアの開発者だという。最初イタリアに来た時は、イタリアでコンピューターの仕事に就きたいと思ったが、イタリアは技術的に遅れていて諦めたというのだ。彼がロシアでやっていたビッグデータを扱う会社が見つからない。

「アメリカはどうなの?」

ボリスは首を振って言った。

「アメリカのマサチューセッツ工科大(MIT)に行きたいが研究員の資格を取るのは難しい。ウクライナ戦争以来、米ロの関係が悪いので簡単にはビザが取れない。イタリアは自分が仕事に就きたい国への中継地にしか過ぎないが、どこへ行くかは未だ決めていない……先ず自分を受け入れてくれるのが、どこなのかを見極めることが今は切実な問題だ」

彼は先のことは何一つ決まっていないと言った。なるようにしかならないだろう。

サンタンブロージオ教会はミラノの内環状線の中にある、古い赤煉瓦のバシリカ様式の教会である。すぐ横には名門のカトリック大学がある。祭られているのはこの町の守護聖人、聖アンブロージオで、教会の中には聖人のミイラが眠っている。

この地区は歴史的な古い建物が多く、すぐ傍にはローマ時代の城壁の残骸も残っている。また地下はカタコンベになっているという話だが閉鎖されていて一般には公開されていない。私はこのバシリカ様式の教会がとても好きだ。力強くてシンプルな美しさがあり、大聖堂・ドゥオーモとはまた違った趣がある。そしてここは夏よりも冬がいい。