「別の橋だった……幸運にもね。ルネッサンス時代のポンテ・ヴェッキオは汚かったと思うね。今は貴金属店が軒を連ねているが、そのころは肉屋が並んでいて、牛や豚の臓物を川に捨てていたと言うからね。さぞ悪臭ふんぷん、とてもきれいな女性に声を掛ける雰囲気ではなかったと思うよ」

「あなたって興ざめな人ね。折角人が感動しているというのに」

「どっちみちダンテはベアトリーチェに声を掛けなかったから同じだけどね。ダンテの恋は実らない運命だった。彼女は裕福な銀行家の娘で、片やダンテは名もない一介の書生に過ぎなかった。

ベアトリーチェはその後フィレンツェ随一の銀行家に嫁ぎ、一年も経つか経たないかで二十四歳で亡くなったらしい。若くてきれいなうちに死んだから永遠の女性になった」

「私も若くてきれいなうちに死んだら、あなたの永遠の女性になれるかしら?」

忠司は真世を抱き寄せてキスし、耳元に囁いた。

「冗談じゃない、苦労してやっと一緒になったんだ。百まで生きてくれないと元が取れない」

忠司は心の中でほっとしていた。フィレンツェ空港に着いた途端、とんだトラブルに巻き込まれたかと思ったが、どうやら定番の新婚旅行コースに乗っかることが出来たようだ。トラブルは仕事の上だけで十分だ。

彼らのここ三年の歩みは決して平坦なものではなかった。

彼らが知り合ったきっかけはドラマチックなものだった。当時新聞種にもなったからまだ多くの人に記憶されているかも知れない。ある大掛かりな地面師の詐欺事件で、彼らはその地面師の被害者だった。

その後事件は海外に逃亡していた犯人が帰国して逮捕され、一件落着になった。(『マグリットの馬』そのこ+W著・幻冬舎 参照)

松野忠司にとって、事件は彼のその後の人生を決定する強いインパクトを与えた。もとからジャーナリズムに関心があって大学院のジャーナリズム学科に籍を置いていたが、この事件によって漠然としていた目標が定まり、大学院を卒業して二〇二〇年にデジタルニュースの会社を立ち上げた。

だが丁度時期がコロナウイルスのパンデミックとぶつかり、ビジネスを軌道に乗せるのに苦労した。パンデミックは彼の事業にプラスとマイナスの両面があった。

デジタルニュースの主なる財源は広告である。リモートワークをする多くの読者を獲得できた反面、予定していた広告取りに苦戦し、事業資金が目減りしてしまった。

 

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