鼠たちのカクメイ

天保七年(1836年)十月。意義とカイのふたりは、ひと月かけて江戸から大坂へ辿り着いた。現在の大阪市北区天満、桜の名所で知られる造幣局のある地域だ。そばには大川が流れている。意義たちは目的地に向かう途中の川崎橋から、河原で繰り広げられる非日常的な光景を見た。橋の上には見物客もまばらにいる。

「あれは一体何ですかな?」

旅商人らしき者が通行人に訊く。

「ああ。洗心洞の砲術訓練ですわ」と事もなげに言うから、さほど珍しい行事でもなさそうだ。侍と思しき男たちによる砲術訓練。砲術と言うと現代では大砲やランチャーをイメージしがちだが、この時代は火器類全般の射撃術を指して言う。

「せんしんどう? ほうじゅつ?」

旅人が首を捻るのを、地元の町人がニヤニヤ笑った。

「ちょいちょい豆が爆ぜる音がするさかい、腰抜かさんときや」

塾生の多くが扱うのは弓矢の先に火薬を付けて飛ばす「棒火矢」や、種子島銃に毛の生えた程度の火縄銃だ。その火縄銃も弾の重量によって「細筒(ほそづつ)(弾の重量10~20g)」「中筒(ちゅうづつ)(弾の重量40g)」と分けられるが、洗心洞で使われているのは主に細筒であり、確実な射程距離は50メートル程度の単発銃だ。このわずか二十年後に登場する戊辰戦争で使用された自動小銃には遠く及ばない代物である。