【前回の記事を読む】プロポーズされたのに、言えない…両親に家がないこと。借金まみれで、寮に住み込み、極狭スペースで寝起きしていること。
二〇〇〇年 孝子@団地
「孝子」
父親の声で目が覚める。
「かあさんが、いない」
孝子は腰かけた姿勢で目を閉じていた。
玄関に取り付けた三重の鍵が外れている。一番上の鍵を外すために、お母さんは椅子を移動させたらしい。気がつかないほど熟睡してたなんて。
「孝子、いつも悪いね」
かすれた弱々しい声が心から謝っている。
「とうさんの膝が悪いばっかりに探しに行けなくて」
生気のない目元が逆光で見えないから、お父さんの横顔のシルエットは今でも鋭く美しい。この圧倒的な美しさに出会って、お母さんは心を奪われたのかもしれない。
この端正な顔立ちは、もしそこに活力があればサタンにもなれた。お人好しを世界の文豪たちは神様に愛された人として描いたが、そのお人好しと人生を共にする家族には。
以前、お母さんに聞いた。継続して愛した理由。
「あたしに偉そうにしたりしないもの。そんな人、他にいないわ。見下したりしないの。感謝も尊敬もアタマでするものだけど、愛情だけはね」
親が決めた結婚相手は社会的地位がそこそこある人だったらしい。
「アタマでは愛せないの。だからといって幸せに」
間をおいて小さなため息をついた。
「つながるわけじゃないってとこが辛いわ」
お母さん。
孝子は急いで外に出た。平日、団地の昼下がりは静かだ。ウグイスが遠くで鳴く。
四階の踊り場で遠くに目を凝らす。桜の季節。古い団地だから桜の樹々は見事に育っている。孝一を孝一さんと呼んでいた頃に歩いた春が幻のように蘇る。
いた。暖かい陽光の中、別棟の角に立っている。
重いおなかをかばい慎重に階段を下りる。団地の階段には手すりがない。コンクリートの壁に手のひらを当て一歩一歩、下りる。遠目、母親は歩き始めた。早歩きしようとしてもできない自分がもどかしい。
「おぉかあぁさぁん!」
今日の母は振り返らない。
角を曲がり見えなくなった。
ホーホケキョ、春の鳥はのんきに歌う。
次に発見した場所は踏切の中だった。
「お母さんっ!」
走れないが走るしかない。おなかの中で逆さまになった赤ん坊の頭に、首に、負担がかかる気がする。
踏切の音が鳴り始めた。
叫びながら非常停止ボタンを探す。押したときには電車が迫っていた。孝子は遮断機の内側に入り母親の腕を全力で引っ張った。