【前回の記事を読む】「お子さんはウチで無事だよ。今年小学2年生になった」とある事情で1年に延びた海外出張。息子がいたことも忘れていて…
二〇〇五年 孝一@領事館
タクシーの中でさえ、足の裏に大地が感じられた。根を張るべき場所があるらしい。
「そう、帰るんだ。こっちでできたお子さんは、国籍が取れたそうで、良かったじゃないか。こっちでの奥さんというのか、奥さんのお姉さんのご主人も、日本人だってね」
「は?」
オクサンって何だ? ゴシュジンって何だ? スィスタの男のことか?
「どうみても地中海っぽい、けど瞳は赤茶色のハンサムな男でした」
地中海という地域の名前が自分の口から出てきたことにコイチは驚いた。赤茶の瞳が地中海らしくない、と思う自分が不思議だった。同時に、あの、食料を運んでいた男を思い出すと頭痛が波のように襲う。
空港の中は熱気が遮断され快適だった。
「空港にシャワーの設備がある」
所長は遠くを指差し、歩き始める。
「長いこと汗を流してないだろう。さっぱりしたらこの新しい服を着ればいい」
服が入った布袋を軽くたたいた。
「臭いですよね。あの島を出てからは体を洗ってないので。島では滝つぼで全身を洗っていましたが」
泉に潜り、水面を飛び跳ねた。囲むジャングルに響き渡るローザの笑い声が耳の中で鳴り響く。
「ヒゲは思ったほど伸びてないけど」
所長が手前の店を指した。
「シェーバーとフォームはそこにあるドラッグストアで買ってくるから待ってて。いや、一緒に店に入って。必要な物を全部買うから。理髪店もどこかにあるんじゃないかな」
コイチはシャワーの後、新品のシャツと長ズボンに着替えた。身に着けるものを替えただけで自分が別人になった気がする。鏡に映る自分は誰なのか。
俺にはハハオヤがいる。オコサンがいる。ハハオヤとは? 子どもとは? スィスタと男を合わせた顔をした、あの、小さかった人間は? ベイベをローザが産んだ、とは? 新しい人間が現れるのか? 俺がベイベを産む、ということがあるのか? どうやって人間を作るんだ?
鏡に映る自分に質問を浴びせた。
肩より長い髪が綺麗だと思いながら。理髪店にいく時間は結局無かった。街に理髪店はあったが行けなかった。船を降りるとき男に貰った現金というものは食べ物に消えてしまった。
おカネとは何だ。
シャワー室を出て、所長がいるロビーに向かう。
所長の家で暮らしているそのオコサンは俺が産んだのか?
「奥さんと息子さんのことは後でゆっくりと話そう」
またか、オクサンって何だ?
所長は穏やかな声をことさら穏やかにした。
「長くなるから」
所長の深い声がコイチを底なし沼のほとりに立たせた気がした。
パパ、の意味が思い出せた。俺は子どもを産めないんだ。父親だ。
オス鳥が、産んでもない卵から孵ったヒナにエサを運ぶ理由。鳥はホントは、人間より賢いって、どこかで聞いた。
二人は手荷物検査に進む。
「島にいた二人の子の国籍は、書類の不備はないから日本だそうだ」
「私や、カルロの父親という日本人が書類上の父親? 名前はカルロとガブリエルなのに? ガブリエルはヒロシになったようですが」
頭痛が再発した。
「ああ、そうだ。合法的な書類だ。それで姉妹は査証取れて、子どもと一緒に日本に住むらしい」
どういうことだ? 始めから仕組まれていたのか? 俺の記憶障害を利用したのか?
「私と住むんですか?」