母さんはとっくに携帯電話だったし、家には携帯を二台も契約する余裕はなかった。それにもともと社交的でなかった俺は、さほど携帯電話がほしいとも思っていなかった。
思えば、俺に電話がかかってきて、長電話した記憶もない。
固定電話の着信音を聞いたのは、何年ぶりだろう。
ふだん寝ているときにかかってきたら、無視していたところだ。
その電話は、俺の耳にはふだんと違って聞こえた。
「はい」
相手は女性の声で早口だった。ぶっきらぼうに電話に出た俺に、相手は一気にまくし立てる。
「坂本さんのお宅ですか? あなたは息子さんですか? お母さんが職場で倒れて、救急搬送されました。命の危険もあるので、至急病院へきていただけますか?」
あまりにも急で事態が飲み込めない。
「え? え? なんですか? もう一度説明してくれますか?」
俺にはまったく話の内容が入ってこなかった。
「私は沢口病院の救急外来の者です。お母さんが頭の病気で運び込まれました。すぐにきてください」
「え? どういうことですか?」
なおも問う俺に対して、今度はヒステリックな声で、「いいから早くきなさい」と言うと電話は切れた。
頭のなかが真っ白だった。
病院の場所も定かではない。
大人だったら、タクシーの選択もあるのだろうが、俺はタクシーの呼び方も知らなかった。アパートの隣の部屋の奥さんに、病院の場所を尋ねた。
なんとなく、母さんが頭の病気になったことは言っちゃいけないような気がして、黙っていた。
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