その後も仏教興隆に努めたが、今振り返って仏教への取り組み姿勢を考えると、我は、他に先立って新しい教えを取り入れ荘厳な寺や仏像を造立することで、どうも政の場で周囲に我が勢威を示すことに主眼を置いていたと思う。

一方太子を見ると、確かにその後も斑鳩の地に仏教の都を造り進めていたが、それは我のように世俗の欲ではなく、ひたむきに仏教の教理を探究して世のため、そして人としての有り様を究めようとしていたのを感じる。

確かに太子は我々常人には思いも及ばぬ存在であったわ。外交の面では、泊瀬部大王の時代に中国では長年にわたり南北に分かれて国の勃興が繰り返されてきたが、隋が中国を統一した。

半島の諸国はいち早く使者を遣り朝貢しているようだが、我が国は大泊瀬幼武大王(おおはつせわかたけるのおおきみ)(雄略天皇)の御代に倭国全域を平らげ「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」と称して君臨することを果たした後は、中国による後ろ盾が必要でなくなり冊封を求める使者の派遣を止めた。それから百年余も経過している。

しばらくは大陸の動向を見極めてから態度を決しようとしていたところ、額田部女王の御代になって渡来した高句麗僧の慧慈(えじ)をはじめ、半島からの僧や使者の報せを聞くと、政の新しき制度や仏教を基本にした国づくりなど学ぶべきところが多いと聞き、いずれは使者を遣わせねばならぬが、隋とどのような立場で親交するかを朝廷では思案していた。

 

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