穴穂部王子に続く同母弟を殺害されたいきさつに、穴穂部間人王妃が我と大后に対して憤りを抱いていることは察しているが、太子自身がどのように受け止めているかは伝わってこない。

ただ、しばしば王妃の気鬱に苦慮しているとの噂のみで直接の恨み辛みは聞いていない。よほど太子は争いごとから身を避けようとしているのか、それとも大王家さらには朝廷の大義のためには我らの措置に納得したのだろうか。

いや、今の太子は我らの及びもつかない高い次元から世を見つめているような気がしてならない。空位となった大王位を継がせるにあたり、磯城島大王の男子は絶え、次は孫世代となるが、しかしながら押坂彦人大兄王子はすでに亡くなっており、他の孫はいずれも年端がとどかず経験も覚束ないために誰も推戴できぬ状態であった。

大后の意はいずれ我が子の竹田王子を即位させたいと察せられた。

そこで我はしかるべき時まで大后が大王位に就くことを薦(すす)めたのだ。大后は女の身で大王位は前例なしと固辞されたが、諸臣も大后のこれまでの経験そして政を司る手腕を認めこぞって推挙したのである。

大后は即位を受けるにあたって、大臣の我はもちろんではあるが、それに加えて知恵の深い厩戸王子をして特別に政を補佐することを求め、我も見極めきれぬ厩戸王子は傍から離さずに置いた方が良いと思い了解した。

仏教を積極的に受け入れた蘇我氏の長である我と、仏教を信奉する厩戸王子は、ともに我が国の仏教興隆には力を注いできた。

それまでは我が宅の仏舎には尼しかおらず、本格的な男僧の寺を建立しようと百済から僧や寺院造営の工人を招き、飛鳥の地に「法興寺(飛鳥寺)」を創建した。

太子も丁未の戦いに勝利して物部の所領の半ばを収容し、まずは河内国の玉造の北側の地に父池辺大王の霊を祀る社(やしろ)を造り、その傍に「四天王寺」を建立しようとしたが、起伏の激しい地で開発がかなわず、後には場所を難波の荒陵(あらはか)の地に移して創建した。