【前回記事を読む】「どうした、急に」「……いや、なんでもねぇ。またな」突然話題を打ち切り、そそくさと帰宅した彼は、洗面所で大量の水を……
Case:B 元・医者の選択
良三は悲嘆にくれた様子もなく淡々と事実を述べたが、それは誰よりも己の無力を痛感しているからこそだろう。景浦もまさか前日の別れのあとにそのような会話があったとは想像だにしなかったが若菜は現在中学二年生。一年後には高校受験を控えるため進路の話が出るのは当然とも言える。
「若菜は昔っから雄作を傍で見てたからなぁ。お前に憧れてるんだよ」
景浦は長い間、総合病院の院長を務めていた心臓外科医だった。先の良三が言ったように神の手を持つとまで言われ、日本の名医百選に名を連ねたこともある。
「ワシは人に憧れられたくて医者になったわけじゃない」
「んなこた分かってるよ。しっかし俺みたいなしがない農家の身からしたら学費で二千万も掛かるなんざ想像もつかねぇや」
医学部へ通うにあたって掛かる費用は国立ならばおよそ四百万円。私立ならば二千万から四千万円だ。国立ならまだしも、私学では一般家庭がおいそれと出せる金額ではない。仮に奨学金を使ったとしても私立医大への進学は現実的な選択肢とは言えなかった。
「ワシからは頑張って国公立大に受かれとしか言えんな」
「……そう、だよな」
二人はそこで口を閉ざした。湯気を立てていた茶は冷め、庭の池で飼っている鯉が立てる水しぶきの音がはっきりと聞こえるほどの静寂が場を支配する。
「時間がある時で良いから若菜を連れてきてくれ。サシで話がしたい」
「……いいのか?」
「早とちりするな。話を聞くだけだ」
思い悩んでいた表情の良三。医学部。学費。黒沼家の経済状況。そこから結びつく結論はひとつしかない。良三は今日、学費を用立ててくれないかと来たのだ。
数十年来の親友に金の無心をするのは自尊心が許さないだろうし、数万数十万の世界ではなく場合によっては一千万単位にもなる費用を立て替えてもらえるなど良三とて思っていないだろう。しかし可愛い孫のためだ。全額でないにしろ半額、いや一割でも貸してもらえるとなれば良三は土下座でもなんでもするに違いない。