「検定試験は全員突破」を目標に一丸となってがんばったが、試験を受けて卒業できたのは十四名だった。「検定試験」は晴眼者も受けるから、視覚に障害があるからといって、手心を加えられることはなかった。
当時、珠輝たち視覚障害者は、視力に何の障害もない人や、眼鏡を掛けたりコンタクトレンズを使用したりする人で、視力に関して社会生活に何の不自由も感じない人たちを「晴眼者」と呼んだ。
当時、晴眼者の鍼灸按摩(しんきゅうあんま)師はいたが、それほど多くはなかった。
珠輝が按摩科の二年生になると、クラスは就職先の話題で持ちきりだった。クラス担当の志村正夫教師は、生徒たちの就職先の確保に奔走していた。
生徒の多くが希望したのは、病院や医院だった。厚生年金や失業保険があり、万が一、体を壊してもある程度の収入は保証される。勤務時間も決められているし、祝日の休みも取れる。
そこへいくと、施術所に住み込みで働く珠輝たちの労働環境は劣悪だった。働く時間もあってないようなもので、夜中に休んでいても、仕事の電話があれば起こされる。
休みは月に一度。固定給の住み込みでも、体でも壊そうものなら何の補償もないどころか、施術所から辞めさせられることもある。
かと言って、珠輝の方から施術所を辞めればたちまち収入はなくなる。それだけではない。
食事の後片付けはもちろん、家の掃除も朝晩2度しなければならなかった。これほど条件が異なれば、生徒たちが病院や医院に殺到するのは当然だ。
全盲の珠輝のような生徒は施術所までの通勤が困難なため、住み込みの施術所を選ばなければならなかった。
次回更新は8月12日(火)、21時の予定です。
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