米穀・酒・酢・海運を一手に束ねるのは六十五代・北風荘右衛門貞和という切れ者だ。彼は跡部良弼の意を受け、自前の船を駆使して米を江戸に回送している、という。
「使途はおおよその見当がつく。おそらくは、来年行われる『将軍代替わりの儀』に贈答される祝賀品やろ。無論最後は金に換えて、幕府の財政を穴埋めする魂胆やな」
平八郎はそう推測していた。さらに意義が江戸で仕入れた情報を加味すると、跡部の裏には実兄の水野忠邦がいる。忠邦が幕閣のトップ・老中首座を得るためには、こうした金の工面が不可欠なのだ。
意義の祖父に当たる田沼意次もそうだった。新将軍にはいくつかしきたりがあり、大権現が祀られる日光東照宮参拝もそのひとつだった。
ところが当時の十代将軍・家治は、財政難を理由に断念せざるを得なくなっていた。そこへ意次があの手この手を使って参拝費用(現代の額で三十五億円ほど)を捻出し、公方様の信頼を勝ち得たのだった。
(皮肉なものだ。その孫が、腐敗役人の尻尾を探るのだからな)
自嘲しながら意義は、窓の外に広がる早朝の光景を目で追った。この数日で何度も見ている。三つ葉葵の紋付きを羽織る者が、荘右衛門と話し込んでいるのが見える。聞き込んだところによると、この男は東町奉行の浅岡という与力らしい。
「北風」の名を冠した貨物船に大量の米俵が積み込まれていく。数艘の船が複数回往復しているから、江戸城の大蔵には収まり切れぬ量だろう。
(目と鼻の先にある大坂には一粒の米も回す気はないのに、豪勢なご機嫌取りだな)
上には追従と忖度。下には無慈悲な抑圧。自身は根拠なき誇り。これが侍の世界。
冬に向かい気圧が下がるにつれ、意義の脳内には霧が立ち込めていくのだった。
次回更新は3月15日(土)、11時の予定です。
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