【前回記事を読む】田沼意次は、政敵・松平定信の陰謀で『賄賂政治の張本人』という汚名を着せられて失脚した。定信は、田沼政治の公式記録を改ざんし…

鼠たちのカクメイ

「ねえ、お兄さん。寄っておいでよ。うちのお店には上玉が揃ってるよ」

そんな台詞を背中で聞いた。噂で知る限りでは葵は田沼家から三下り半を突き付けられたあと、武士の嫁としての籍を抜き吉原の茶屋の女主人に転身したという。意義は見てみぬふりをし、その場を逃げ去った。

(それもこれも俺のせいだ。俺が勘当されたから、その煽りを受けたのだ)

あるいは、意義が見たのは別人だったかもしれない。だが、自分が妻だった女性の人生を狂わせたことは確かだ。罪悪感と自己嫌悪。一度その思いに駆られると、頭の中に黒い霧が立ち込め、闇の中へ引きずり込まれる。彼は現代医学でいう「うつ病」だった。この夜も意義は、布団に潜り込んだまま一睡もできなかった。

翌朝。本当に午前五時には講義が始まっていた。洗心洞で大塩平八郎の講義を受けた者の顔ぶれは、十五歳から六十歳までの与力、同心、町方、商人など身分はさまざまだった。塾長が元与力のため、町奉行に勤める者も少なくない。その中に眠気眼のカイもいた。

平八郎が教える陽明学は十五、六世紀に王陽明が興した儒教の一派だ。朱子学が知識や論理のみを重んじるのに対し、陽明学は知を活かす行動力を重視する。朱子学は礼儀と上下関係を厳格化したため、幕藩体制を確立したい徳川吉宗や松平定信ら権力者によって推奨された。

対してこの陽明学は、幕府にとっての危険思想になり得た。行動しなければ知とは言えない「知行合一」というテーマは、悪を知ったら行動を起こすべしという過激思想につながる。松平定信が寛政異学の禁で最も排除したかった学問なのだ。

「米や作物、生きる糧を作るのが農民、それを売り買いし住家を建て着物を縫うのが町人、では武士の仕事とは何か? 吉見、答えてみ」