昭和十九(一九四四)年の島民強制疎開によって、小笠原に関する貴重な資料のほとんどが紛失・消失している現在にあって、この田折家の母島入植当時の記録である「田折家総括録」は現存しており、その総括録に、入植時から明治三二(一八九九)年頃までの生活実体が克明に記録され残されているのです。
その総括録は、昭和五五(一九八〇)年に「東京都指定有形文化財」に指定されています。
そして、別の小笠原を紹介する本には、当時の田折家一族一二人の貴重な集合写真が時の経過から原板は白みがかったものとなってはいますが、掲載されています。
その写真を正月の時かと思われますが、誰が何時写したのでしょうか。自宅前なのか、羽織袴の着飾った姿で撮られています。
お一人おひとりの姿は、総括録に綴られた厳しい生活実態とは掛け離れた正装した姿で、さらに、女性は見事なまでに髪結いして凛とした格好で、当時の田折家の生きた証を後世の人々に伝え残そうとしたのでしょうか、それは見事に撮られているのです。
原板の白みがかった写真は、総括録と一緒に強制疎開の混乱期を乗り越え残されてきたのでしょうか。
また、総括録の記録は、原文に出来るだけ忠実な形で紹介した本が存在するのですが、当時の生活実体についてその一文を紹介させて頂くと、入植時の開拓の厳しさが克明に綴られています。
それは、希望を抱いて入植した状況とは違って……、などと勝手に想像したりするのですが、以下のように綴られています。
「父嶋よりの来船を一日千秋の思いをなし、日々小高き山に上り眺め候得共、何時来るとも分からず、失望のあまり唯々運命を天に期し、餓死するも天命、生きるも天命と家族を慰めた。」との記述の件など、赤裸々な記述は田折幸太郎さんによるものでしょうか、貴重な内容の資料となっています。
是非、機会があれば、田折直喜郎さんとお会いし、伝えられている先々代の開拓の歴史をお聞かせ願えればと想っている次第です。
それにしても、戦時下強制疎開という混乱期を経て、よくぞ貴重な資料を残されていたものだと感嘆すると共に、当時、田折幸太郎さんが記述された資料を、お孫さんとなる先代の方が、おじいさんの記録した総括録を家宝として、梱(こうり)に入れるなどして懸命に持ち運びしたことが窺い知れます。その想い・姿が総括録の存在から伝わってくるのです。
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