第一章 地方分権国家としての隆盛

二.任那(みまな)

「みやけ」と並んで、古代史ではっきりさせなければならないのは、一般に余り理解されていない「任那・みまな」の意味でしょう。

現在でも任那に関する歴史資料としては、日本書紀と宋書など一部の大陸の記録によるものしかありません。

そこで、書紀の記述の中から、任那に関する文章を抜き出して、それを内容別に分類することによって(帝紀順や年代順を無視して)任那の実態に迫る試みをいたしました(整理ノートは省略)。

その結果わかったことは、書紀編纂の当時になって初めて、当時の我が国の官僚や書紀の編纂者達が、

「昔、倭国の影響下に、任那という地域が韓半島に存在した。それは新羅や百済と同様に、我が国と交流があった。それらの国と我が国との関係は、彼らが毎年我が国に対して朝貢をしてくる、我が国優位の関係だった、という実態が、半島出身者からの情報で認識できた」

と思われるような構成で書かれています。

即ち、継体紀の百済系の編纂者によって、韓半島内での知識を基に記述された任那の実態を当時の日本人が初めて知ることとなったように書かれているのです。

他の書紀の記述から、当時の王朝に、任那成立の経緯や実態の伝承がなかったとは思えず、むしろ、編纂に当たっての参考文献の中に、その頃を記述したものが含まれていたとしても、それを無視したものと思われるのです(この意味は後ほど明らかになります)。

いずれにしても欽明二年秋七月の条で、百済の聖明王が、先祖の速古王(四世紀中頃の即位)・貴首王の時に、任那諸国の旱岐(王)達と誓いを立てあって、お互い仲良く、連合国家として倭国の天皇(当時は大王)に仕え、強敵(高句麗か)を防いできた、とあり、又、継体二十三年の条や、欽明二十三年の条に見られるように、韓半島南部の小国と、新羅、百済による、我が国主導の軍事同盟的色彩の強い連帯組織が四世紀中頃に成立し、その後に、新羅と百済を除く国々を任那と称したのは事実と思われます。