第一章 地方分権国家としての隆盛

三.國造(くにのみやっこ)

みやけの長

さて、書紀では神武帝以来孝徳帝に至るまで「國造」と「屯倉」は併存しています。

にもかかわらず、「和名抄」に表われる地名でこの両者が重なっていないのです(伊甚の屯倉と伊甚の國造、淡路の屯倉と淡路の國造については、それぞれ時期がずれています)。ということは、その両者の立場が異なっていたことを物語っているのです。

更に、王権により「屯倉」が建てられたということは、前にも述べましたが、それまで自立していた邑(みやけ)が王権によって直接の指揮下に入れられ「屯倉」となったということなのです。王権の直轄領になったということです。

四~五世紀、我が国はまだ中央集権国家ではありませんでしたので、恭順した田の領域(邑・みやけ)の長は「國造」とされ、その地方の豪族として自治が認められていたのです。

書紀にしても、國造本紀にしても、「國造」は大王が任命したことになっていますから、王権の統治機構には組み込まれていたのです。

しかし一方で、王権が恭順させることも征服することもできなかった邑(みやけ)が当然あったと思われます。それは、先ほどの「国郡制」の地名との対比で國造の名称と一致している地名以外に、その他の地名が多数存在していることからもうかがえます。