第一章 地方分権国家としての隆盛

三.國造(くにのみやっこ)

國造の盛衰

即ち「國造」中心に考えますと、このように「里」の単位で始まった「國造」が「国郡制」の「国」という広範囲まで勢力を伸ばした者もいれば、「里」も維持できなかった「國造」もいたことが外形的には推量できるのです。

このように「國造」の「國」は「国郡制」でいう「国」とは明らかに異なっているのです。又、この「國造」の盛衰が我が国の古代の豪族達による競い合いの一端を暗示しているように見えます。

國造が任された「國」が当初は「里」の広さ程度ものであっても、その後、近隣の多くの里を支配下にして強大になった國造がいたことを示しています。

先ほどの例に挙げた表からもわかるとおり、当時の「國造」達は大王に恭順していたとしても、彼ら自身の勢力拡大のために、近隣への侵食を図っていた様子が見て取れます。

他の國造の領域までも影響力を行使し合うこともあったと思われるのです。この頃の「國造」の様子には、全てが政権の意向で動いていた組織とは全く異なっているような栄枯盛衰が見られるのです。

成務紀で記述されているように、当初は山や川でその範囲が決まっていた、その頃の「國」の範囲が、時代と共に國造という豪族間の力関係により増大、又は消滅していった様子が見えるのです。

勢力を拡大して、「国郡制」の国名にまでその名を残した國造が49名もいれば、國造名に由来する地名が全く残っていない國造が17名もいるのです。

このことは、「國造」がたとえ大王に恭順していたとしても、幅広い自治が認められていたことの証拠とも言えそうです。國造には自治権があったのです。

「稲置」とは何でしょうか

同じような職位とされているものに「稲置」があります。この「置」は「物置」と同じ使い方です。「いねおき」→「いなき」と発音されるようになったものとも考えられます。

するとこれは「稲の倉庫(みやけ)」のことです。

稲置に関しては、允恭紀に闘鶏(つげ)の「國造」が「稲置」に格下げされた記事が見られます。

そこから考えますと「稲置」は、自治は認められている領域の長で、「國造」よりも下位の扱いをされた自治が認められている里の守護職(豪族)と考えられます。

この書紀の記述から「闘鶏國造」は所領を一部召し上げられて「闘鶏稲置」になったのかもしれません。もっともこの「闘鶏稲置」はもっと前の仁徳紀でも登場しますから、この説話の時期がいつだったのかは不明です。

更に、成務紀に「五年秋九月 諸国に命令して、国郡には造長を立て、縣邑に稲置を置かせました」とあることからも、「稲置」の方が「國造」よりも格が下(所領も狭い)だということがわかります。