縣主(あがたぬし)

我が国の言葉の「縣主:あがたぬし:吾田主」は「私の田の責任者」と解釈できます。

そこでこれが國造本紀で言うように「任命」されたものとすれば、「任命権者(私)の田(國)の主」となり、これは、新しく奪取した「里」の守護職ということになります。

ですから、「吾田主・あがたぬし」は反抗したのでその長を誅殺して、我が領土(直轄領)としたところの長で、大王の配下を当てたと読み取ることができそうです。

國造本紀がいうように、神武紀の縣主については、いずれも兄が誅殺された弟獪(おとうかし)と弟磯城(おとしき)を猛田縣主、磯城縣主にそれぞれ任命しています。

彼らは兄を裏切って神武の配下になったとされている人達です。

又、この縣主は王の直轄領の「里」の責任者ですから当然自治権はないのです。

尚、書紀に記載されている縣主は13人います。

「縣主」というのは古い時代の大王の直轄領の長として任命された者の呼び名のようです。どうやら、継体以前の我が国の地方統治の実態は、大王の直轄地と皇族の領地を除いて、中国に習って「羈(き)縻(び)統治」をしていたようです。

「みやけの長」と「國造」の違い

さて、國造本紀にある「○○國造」の名称は先ほども述べましたように、「国郡制」でいう「国」とは概念が異なっていて、「國造」というのは、大きな領域の守護職だけでなく、より狭い地域の田の領域(里)という所領(邑:みやけ)の王の守護職も多く含まれていたのがわかります。

一方、「屯倉」についても、「里」と思われる領域や「郡」と思われる領域の20の地域に「屯倉の名称」が残されています。

屯倉の名称が和名抄の地名と重なる例

みやけの長

これらの「屯倉」も「國造」と同じように勢力の拡大の軌跡が読み取れます。即ち、「國造」と「屯倉の長」は、同時代にあって呼び名は異なっていても、実質同じ「邑(みやけ)の長」ということになるのです。

その違いは、「國造」は大王に帰順した「みやけの首長」であり、一方「屯倉・みやけ」は帰順しなかった、独立した地域(の長)を表しているのです。これらが「屯倉」と記述されていることから最終的には「田令(たづかひ)」を派遣された、中央集権国家に降伏した地域なのです。

【前回の記事を読む】古代日本の各地に存在した國造(くにのみやっこ)。それは「國の長」として、大王が認めた証しの呼び名と考えられている。

 

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