プロローグ
五十歳を過ぎた頃から漠然と「古代史」に興味を持ち始めた私は、出張の行き帰りの新幹線車内や、飛行機の機内で古代史関連の本をいろいろ読んでいるうちに、徐々に古代史の世界に引き込まれてしまいました。
六十四歳で会社勤めをやめた私は、早速、漢和辞典や古語辞典をそろえて、先ず古事記の原文を読み始め、続いて日本書紀の原文も読みました(原文は、古事記:日本古典文学大系、日本書紀:天理図書館所蔵卜部兼右本による)。
いずれも白文化しての通読でしたので、一応の現代文訳をし終わるのに私としては五年以上の歳月が必要だったのです。その中で、それぞれの現在解説されている内容とどうしても異なっている解釈しかできない事例が多くあり、現在の通説といわれている我が国の古代史そのものに対する不信感が芽生えました。
それ以来、十六年間自分なりにテーマを決めてこつこつ考察をしてきましたが、今回、それらをいったんまとめて本にしてみようと思いたったのです。
本書の内容は、恐らく教科書や市販されている古代史関連本とは異なった主張が多いとは思いますが、私が十六年間真実を追究した結果として受け止めていただけましたら幸いです。
さて、極東に位置する我が国に最初に人が住み始めたのは、約二万年前の港川人(旧石器人・沖縄)、だといわれています。その後、約一万六千年前頃から、土器文化の花を開かせた縄文人(新石器人)が列島各地にその爪痕を残しています。五千年ほど前の青森の三内丸山遺跡は縄文人の長期定住が見られる遺跡として特に有名です。
又、新潟の長岡市馬高遺跡出土の火炎土器は、その芸術性の観点から見ても、我が国が誇る縄文土器文化の結晶でしょう。
我が国の考古学は、その祖といわれているE・Sモース(アメリカ人:動物博士)によって一八七七年に発見された縄文時代後期(三、四千年前)の遺跡である、大森貝塚から始まったといわれ、以来次々に、各地で遺跡の発掘が続いています。
佐賀の菜畑遺跡から、今から三千年ほど前の大規模な水田跡が発見され、この頃(BC 10世紀頃)から我が国に稲作の文化が入ってきたようです。
稲作は列島の全国に広がっていき、人口も大幅に増大し、紀元前(BC)4~5世紀の頃十万人にも満たなかった列島の人口がAD5世紀頃には百五十万人にもなったようです。
今から約二千年前のAD1世紀からAD3世紀にかけて、当時倭人の国といわれた我が国の北部九州の小国家や連合国家が大陸の漢や魏と交流していたことが、中国の歴史書である後漢書や魏志倭人伝に書かれています。
一方、千七百年ほど前のAD4世紀頃から列島と半島の一部に特異な形状の墳墓、前方後円墳が広く造られるようになりました。このAD4~5世紀頃、我が国を「倭國」と名乗る、倭国王を中心とした「地方分権国家」が国際社会の舞台に登場したのです。