第一章 地方分権国家としての隆盛

四.中国の史書から見える我が国の古代

さて、ここで改めて、中国の史書が語る我が国の古代史を見てみましょう。

中国の史書にあるように、我が国はAD1世紀中頃に後の邪馬壹連合王国の一つに挙げられている「奴国」が漢に朝貢し、AD3世紀中頃にはその「邪馬壹連合王国の女王卑弥呼」が中国華北の魏に朝貢していました。

更に、AD5世紀に入ると「倭の五王」は東晋、更には、歴史に現れる最初の倭国王の讃は「倭国」として、南朝といわれている宋に朝貢し、以来AD6世紀初頭に「倭国王」の武が梁に朝貢するまで、南朝に朝貢を続けていました。

その間の中国の歴代王朝の移り変わりを言えば、魏の王朝というのは漢の流れを汲む王朝で、魏は漢から禅譲を受けた王朝なのです。この魏を受け継いだ王朝が南朝といわれる晋(東晋)であり、宋なのです。

我が国の歴代の朝貢はこの漢から始まった流れに沿っていたのです。というのは、倭の五王の時代、中国には晋とは別に華北には北魏がありました。

北魏は鮮卑族の拓跋氏が興した王朝です。邪馬壹国が魏に朝貢していた時、鮮卑族もやはり魏に朝貢していたのです。鮮卑族は言うなれば、我が国から見れば、中国王朝に対しては同格の中国魏王朝の子分仲間だったのです。

倭の五王が、わざわざ遠い晋や宋に朝貢していたのは、我が国が古来、漢の流れを汲む王朝を中国の正統な王朝と認識して臣下の礼を取っていた、という邪馬壹連合王国の矜恃を引き継いでいたのです。

即ち、倭の五王の倭国は卑弥呼がいた連合王国の中から成立したという証しでもあります。

北魏は我が国と同格の鮮卑族の王朝であり、朝貢する相手ではないとするのが我が国の姿勢だったようです。