先ほど「國造」達の栄枯盛衰と述べた中で、周辺に勢力を伸ばしていたというのは、これらの、まだ王権に恭順していない邑(みやけ)への侵攻のことだと考えられるのです。又、それ等のうちのいくつかが、後に「屯倉」として直轄領とされた地域の「邑(みやけ)」ではなかったかとも考えられるのです。
即ち、恭順して、「國造」として「みやけ」を任された地域や、攻め滅ぼされて直轄領とされ「縣主」が置かれていた地域、以外の多くの邑(そこにはもちろん必ず「みやけ(穀物倉庫)」がある)はそれぞれの「邑(みやけ)の長」のもと独自の時代を過ごしていたことが考えられるのです。言うなれば、恭順していない上に滅ぼされてもいない豪族達が多く居たということです。
当然のことですが、これら恭順していない、自立していた邑々は、時代と共に近隣の國造達や、安閑紀に見られるように王権による「屯倉を建てた」行為によって滅ぼされていき、安閑紀以降、徐々にその姿を消して中央集権国家に飲み込まれていったのです。
その新しく屯倉として統治機構に組み込んだ地には「縣主」を置かず、政権から官僚を送り込んで、国家による直接統治に切り替えたようです。
欽明紀に「十七年秋七月六日(己卯・ツチノトウ) 蘇我大臣稲目宿禰達を備前の児嶋郡に遣って、屯倉を置き、葛城の山田直瑞子(ミズコ)を田令(タヅカヒ)に致しました」とあります。王の領土ではなく今度は、政権の直轄領ですから「縣主(吾田主)」とは言ってはいないのです。「田令(たつかひ)」を派遣して官僚による統治をしたのです。
これこそが中央集権化の動きの証」です。継体紀以降にこのように大量の「屯倉」の設置が記述されているということは、「國造・稲置」など統治機構に組み込まれていた豪族以外に、王権に支配されていなかった多くの邑(みやけ)があったのです。地方には「まつろわぬ(王権に恭順していない)」大小の豪族達が沢山居たのです。