第一章 地方分権国家としての隆盛

1.「みやけ」

王権による「みやけ」の奪取

書紀では、「子代を立て、亦屯倉を置く」という表現が出てきます。これは何を意味しているのでしょうか。

子代(その領域と、そこで働く田部の民や、そのための倉庫である「みやけ」を含んでいる権力者の所領と考えられます)や屯倉(みやけ)は、そこが新たに開墾したものでなかったとしたら、これは「大王(天皇)」が実力で、その長から奪い取ったことを意味しています。

それ以外に考えようがないのです。しかし、従来から、書紀の記述通り「子代を立てた」り、「屯倉を置いた」り、という行為に対して、何の違和感や疑問を持たず、天皇の領地の一部に名を付けて、後世にその名を残すためのものであったとしています。

しかし、書紀を読んで、我が国の農民が全て、「国から土地を分け与えられていた」という主旨の記述は孝徳紀の大化二年以前にはありません。

ですから、子代を「立て」たり、「屯倉」を「置い」たりした、ということはその大王(天皇)が力で勢力を拡大したことを意味しています。

「立てたり・置いたり」で何事もなかったように記述しているのは、日本全国全て天皇の統治下であったという日本書紀の主張の表現なのです。この「屯倉」を含む、「子代」や「部」を建てることは、影響力の行使であり、勢力の拡大を意味していたと思います。

安閑紀に多くの屯倉を定めた記述があります。これは、王権の強化と見ることができます。

各豪族の所領を、次々と献上させて(或いは奪取して)中央集権国家としての体裁を整えてきた時期と言えます。この後、蘇我氏中心の時代の、冠位十二階や十七条憲法など、官僚による中央集権統治が始まるのです。

「みやけ」は後世、食封・封戸・戸口(ヒトヘ)等の名称で下賜され、又、更に下っては、石高制として封建領主に配分された領地の初期の姿だったのです。