第一章 地方分権国家としての隆盛
1.「みやけ」
庶民には関係の無い「屯倉」の文字
風土記の場合は、それが八・九世紀以降のものであるために、正倉(院)の造営によって、「屯倉」という言葉が死語になってしまった、とも考えられます。
しかし、それでも風土記の昔の記述の中に「屯倉」の表記が一件もないということは、以前から民衆の間で「みやけ」は「穀物倉庫=御宅(豪族の屋敷)」であって、そもそも「屯倉」と表記するという意識がなかったことが考えられるのです。
尚、「御宅」は、最後は「郡家」に置き替えられ、それも「みやけ」と呼ばれるようになり、出雲国風土記では「正倉」の文字が使われていて、これも「みやけ」と読まれています。
即ち、所領としての「屯倉」は「郡家」に置き換わり、「穀物倉庫」としての「みやけ」は「正倉」に置き換わったのです。「正倉」になって初めて「みやけ:正倉」が国家制度としての位置を占めたのです。
誰が「みやけ」を「屯倉」と表記したのでしょうか
書紀に書かれている以上「みやけ」を「屯倉」と表記した人がいることになります。「屯倉」は古代中国では「くらいれ」と解釈されています。水運で米を運んで倉に入れることです。
中国では「行為」を表す語彙です。しかし記紀の「屯倉」は特定の名詞です。穀物倉庫という意味では通じるものがありますが、我が国の場合の「屯倉」はおそらく水運とは特に関係はないでしょう。
この表記をした人はきっと漢字文化圏の人(当時の中国人等)に「みやけ」を理解してもらうために、「屯倉」の字を当てたのです。記紀の記述の中に、警備のための兵の配置はどこにも書かれていませんが、「穀物倉庫」に警備の人がいたことは想像に難くありません。
「屯」の意味は「兵を集めて守備警戒する・守り」です。ですから「屯」の字を当てていることからも、この倉庫は兵で守られていた可能性があります。「穀物を沢山集めて貯蔵していて兵で守っている倉」というイメージです。それは「支配者」の物というイメージです。