第一章 地方分権国家としての隆盛

1.「みやけ」

「みやけ」を定義する

「みやけ」とは「我が国に稲作が普及した当初に造られた、環濠集落内に、環濠の外の田で収穫された穀物などを収納するための穀物倉庫のことです。

豪族の時代においては、その首長が徴収した穀物を収納した倉庫が豪族の屋敷内にあることから、部民達から「御宅」と呼ばれたところと思われます。又豪族にとっての「みやけ」は「徴税倉庫」即ち「支配の象徴」であり、六・七世紀頃には意味が拡大されて所領的ニュアンスでも語られていた所」となります。

即ち稲作後の我が国では「みやけ」が社会基盤の最小単位だった考えられます。又一方で、一つの「みやけ」の区域は、「くに」といわれ、「里・郷・国」の漢字が当てられています。古来の多くの我が国の地名は、この「みやけ」の呼び名だったようです。

「みやけ」は今でいう里、郷に当たる一定の地域を表し、そこの民が、一つの社会を形作っていて、国という表現をされていたようです。

私たちは古郷に帰ることを「クニに帰る」と言いますが、その名残でしょう。

その「クニ」には首長が生まれ、近隣の「クニ」との争いや合従連衡(がっしょうれんごう)を経て、大きな「クニ」を作ったり、又消滅したりしたことでしょう。有能な首長は、周囲の「みやけ・クニ」を取り込んで、より大きな「みやけ・クニ」を形成した場合も多々あったようです。

この、一定の地域(クニ・所領)としての「みやけ」という単位は、しばしば「価値ある物」として、献上されたり、下賜されたりしているのです。

これらの「価値」を生み出しているのは言うまでもなく、そこで貯蔵されている穀物とそれを生み出している民と土地です。その「みやけ」の支配者は、その収穫物を他の物品と交換できますし、多くの人びとをその支配下で養うことができるのです。

即ち、ここに至って「みやけ」は生産物のみならず、それを生産する土地と民全ての支配の名称であるとともに、「所領の価値」の単位を表すように迄なってきたのです。

孝徳紀で、前述した中大兄皇太子が天皇に差し出したとされている「屯倉(みやけ)」の数が百八十一ですが、これは倉庫の数ではなく、「屯倉(所領)」の数と思われます。