庶民には関係の無い「屯倉」の文字
さて、各風土記では、いずれも「御宅・三宅」と書いて「みやけ」と読んでいます。
本来、「御宅・三宅」は「みやか」(「宅」は「やか」)なのですが、長の「御宅(みやか)」に「みやけ:徴税倉庫」が在ったことから、音が近いこともあり、慣習的に「御宅・三宅」を「みやけ」と読むようになったようです。
播磨国風土記の飾磨郡の記述に、
"飾磨御宅と云う所以は、大雀天皇の御代に、人を遣りて意伎(おき)・出雲・伯耆・因幡・但馬の五つの国造等を喚(め)したまひき。是の時に、五つの国造、即ち召の使を以て水手(かこ)とし、京に向かひき。此を以て罪とし、即ち播磨国に退けて、田を作らしめたまひき。
此の時に作れる田は、即ち意伎田・出雲田・伯耆田・因幡田・但馬田と号(なづ)く。即ち、彼(そ)の田の稲収納(をさ)むる御宅(みやけ)は即ち飾磨御宅(しかまのみやけ)と号づけ、又、賀和良久三宅(かわらくのみやけ)と云う"(「播磨国風土記」沖森卓也氏・佐藤信氏・矢島泉氏編著)。
風土記は各地に伝わる地名や風俗に関する由来や旧聞を報告させたものですから、そこには、その地方の民の言葉や意識が記されています。ここでも「御宅・三宅:みやけ」が「穀物倉庫」と書かれています。播磨風土記の説話は、飾磨御宅・賀和良久三宅に意伎田・出雲田などと呼ばれる田域があったことから、後付けで作られた説話でしょう。
しかし、風土記には「屯倉」の文字が全く見られません。
我が国の各地で「正倉」の遺跡が発掘調査されていますが、全て七世紀末から八世紀初頭以降のものと言われています(大橋泰夫氏「古代社会に於ける法倉の研究:平成二十四年三月」)。我が国での、国郡制の施行の基に新たに郡家を定め、従来の「穀物倉庫」としての「みやけ」を、新たに「正倉(みやけ)」として造営を始めたのです。