そんなわけで「みやけ」に「屯倉」の文字を当てた人は我が国の高級官僚だったと思います。
さて「みやけ」を「屯倉」と翻訳した時期ですが、決して稲作が始まってすぐの頃とは思えません。最も新しくて記紀の編纂時が考えられます。
或いはさかのぼって、国史を書き始めた時が考えられますが、その時期を確定することは困難ですし、国書を魏に送った卑弥呼の時代までさかのぼることも考えられます。いずれにしても漢字が通用していた時代です。
このように、「みやけ」という言葉は、本来、単に「穀物倉庫」を表す我が国の土着の言葉だったのですが、時代と共に出世した「鰤(ぶり)」のような言葉だったのです。
「みやけ」と「くら」
さて、我が国には貯蔵場所として「くら」という言葉があります。屯倉(みやけ)も「倉(くら)」の字が当てられています。
稲作が我が国で始まった頃の、比較的高地の集落では収穫物の貯蔵のために穴が掘られていました。低湿地の集落では、穴を掘ると水が出てしまい、収穫物の貯蔵ができませんが、比較的高地の集落では、もっぱら穴の中に梯子で降りて行って貯蔵したようです(板附け遺跡など)。
「くら」は「磐座」・「位・座居」など、神を迎える所から来たとか、物を納めておく棚の意から来たともいわれていますが、むしろこの穴倉が「くら」の語源ではないでしょうか。「暗し」という形容詞の語幹の「くら」です。
ですから、環壕集落の時代、低湿地の穀物倉庫は高床式建物の「みやけ」、比較的高地の穀物倉庫は穴倉の「くら」だったのではないでしょうか。
その後、「穀物倉庫」の主流は、その機能性や雨対策などから、高床式の「みやけ」になっていったものと思われますが、「みやけ」という言葉の意味が「首長の屋敷」の代名詞として使われるようになると、「くら」という言葉の方が「物を入れておく所・藏」を表す言葉として定着していったものと思われるのです。