【前回の記事を読む】信長の死は“誰”に仕組まれていた? 光秀だけでは終わらない——そこには“秀吉の計算”が静かに動いていた。

第一部 

4 本能寺の変が光秀の犯行だとするには不可解な秀吉に関する事象

4 実行不可能な中国大返し

早すぎるのは毛利との和睦だけではない。

秀吉は備中の高松城を水攻めしている最中の6月3日に本能寺の変を聞いて毛利と直ちに和睦し、その翌々日の5日に1万7千とも、それ以上ともいわれる兵とともに高松城を後にし、8日後の12日には高松城から約200km離れた山崎まで移動したというのだ。

200を8で割れば25で、1日25kmであれば一見実行可能に見えるが、それを8日間続けるとなると、できる人はほとんどいない。

また、現在であれば道路が舗装されているが、当時はそうではないし、旭川、吉井川、市川、千種川、揖保川、加古川、武庫川など大きな川が何本もある。その中には橋のない川もあるだろうし、それを渡ることは容易ではない。

ましてや、『信長の誤算』(井上慶雪氏著)によると、この時期、この地域は1日置きに大雨だったとのことなのだ。

当然これらの川は増水し、橋のない川は渡れるものではない。それだけではない。先ほど述べた「1日25kmの移動」も、ぬかるんで歩きにくくなった道を雨に濡れた兵が移動するのである。当然土はグチャグチャになり、時速4kmは無理であろう。

歴史家の中には武具は脱ぎ捨て、裸で走り、着いた先で新たに武具を与えられたなどという何の根拠もない勝手な推測をする方(かた)がいるが、武具を脱ぐのは簡単だが、新たな武具の調達はどうするのか。どこにある武具を、誰が、どこにある金で買い、どうやってどこに運ぶのか。1万7千人分の武具の調達は口で言うほど簡単ではない。

すなわち、武具を脱ぎ捨てて裸で走り、近畿に帰ってから再度武具を与えられるというのは、「中国大返し」を史実として捉えたうえで無理やり導き出した方法であろう。

通常であっても川を渡ることが困難な中で、増水した川は容易に渡れるはずがないことから、一隊は山道を通ったと考える方(かた)がいるかもしれないが、そうなると一層1日25kmの山道の移動は困難になる。

また、秀吉はこの移動の翌日の13日に山崎で光秀と戦い、あっけなく破ったと伝えられている。200kmもの距離を走り続けたその翌日に戦うこと自体到底不可能であり、ましてやその戦いにあっけなく勝つなどあり得ない。

すなわちこの高松城から山崎までの中国大返しは作り話と考える以外に解釈のしようがない。

しかし、世間が実現不可能だと頭を悩ませる「中国大返し」も、秀吉が備中にいたのではないと考えるとすんなり解決する。