つまり、姫路城が秀吉の居城だったことから、秀吉だけでなく、秀吉の家臣も本能寺の変勃発時に備中にはおらず、備中と山崎の間の姫路城に控えておき、本能寺の変後そこから山崎を目指せば8日で移動は可能になる。

姫路から山崎まで直線距離であれば100km足らずである。北上して丹波を通れば川幅も狭くなり、8日あれば山崎まで帰って来ることはより容易になる。

高松城には清水宗治を欺(あざむ)くだけの一部の家臣だけ残しておいて、その他の大勢の家臣は自身の居城である姫路城にいたと考えれば中国大返しに何の不合理も不思議もなくなる。

「清水宗治を欺くだけの」と書いたが、清水宗治もすべてを知っていながら切腹した可能性もある。

信長から狙われた毛利家は戦の経験の少ない輝元が総大将であり風前の灯火だ。正面切って戦っても勝てないだろう。だとすれば秀吉の策に乗り、秀吉が疑われないようにするしかない。輝元に忠誠を尽くす宗治はすべてを承知のうえで毛利家存続のために自身が犠牲になった可能性は十分にある。

5 小早川隆景・安国寺恵瓊への禄や姓の付与

小早川隆景は毛利輝元の叔父で、秀吉が賤ヶ岳の戦い(1583年)で柴田勝家を破ってからは秀吉に従っているとされ、九州征伐(1586年)などで功を上げ、37万石を付与されている。また、天正16年(1588年)に上洛した際には秀吉から羽柴の名字と豊臣の本姓を賜っている。

安国寺恵瓊(えけい)も毛利方の外交僧で、毛利を倒そうとする秀吉と折衝を重ねていたが、秀吉が四国征伐後、伊予に2万3千石を与えられ、九州征伐後は6万石に加増されたばかりか、僧でありながら豊臣大名という称号まで与えられ、異例の位置づけとなっている。

毛利方が本能寺の変まで秀吉と対峙していたのであれば、その後彼らが秀吉のために働こうにも秀吉との信頼関係が築けておらず、しばらくは活躍するチャンスがないはずだ。それなのに前述のように活躍したとすれば、短期間で信頼を得たことになるが、果たして何をしたのか。

「4.③本能寺の変前後の早すぎる毛利との和睦」で、秀吉は本能寺の変の前から毛利方と和睦の交渉を進めていたと述べた。

毛利方の総大将である毛利輝元は清水宗治の切腹に反対だし、吉川元春は秀吉との決戦を主張していた。その毛利方をまとめ、和睦交渉を進めるには小早川隆景や安国寺恵瓊の存在は欠かせず、それ故の高禄や姓の付与だったのではないだろうか。禄はともかく、姓まで与えるのは尋常ではない。

しかし、それにしても小早川隆景の37万石は多すぎるし、羽柴の名字や豊臣の姓を賜(たまわ)るということは言ってみれば養子にしたようなものであり、通常ではあり得ないのではないだろうか。

あの黒田官兵衛でも12万石(検地後17万石)しか与えられていないのだ(もっとも、黒田官兵衛はその智謀(ちぼう)を秀吉から畏(おそ)れられて大きな所領を与えられなかった面もあるが)。


※氏も『疾風怒涛・秀吉東上の経路』(藤本光氏著)から引用したとのこと

 

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