はじめに

歴史はその後の権力者によって歪められる。権力者によって歪められたその歴史から本当の史実を探るのは容易なことではない。権力者に都合が悪い物証や書物はことごとく破壊されたり焼却され、人間は抹殺される。

あるいは権力者に都合の悪い部分を都合良く変えられて伝えられる。そうなると、権力者に都合が悪い情報を握っている者は口をつぐみ、真実は伝えられなくなる。

そんな状況をかいくぐり、ほんのわずかに残された資料や痕跡がある。そんな資料は権力者に都合が良い資料の何十分の一とか、何百分の一しかないため、権力者に都合が良い資料の何十倍、何百倍の価値があると考える。

「信じる」とは、人が言うと書く。誰かが言ったことを、それだけでそう思うことだ。誰かが何かを言い、それだけではそう思わず、その根拠を求め、それが物証であれ文献であれ、それを確かめてからそう思う場合は、相手の言うことを信じているのではなく、その物証や文献を知っているのであって、「信じる」ではない。

誰かが何かを言ってそれを信じるかどうかを判断する場合、相手が嘘をつく人かどうかがそれを見極める根拠になるが、では相手が正直で嘘をつく人でなければ、その人の言うことはすべて信じて良いかというと、それだけでは十分ではない。

相手が正直で嘘をつく人でなくても、その相手に真実を見抜く力がなければ、その相手がそう信じているだけで、実は間違ったことを言っていることは多々ある。

例えばある物を誰かが検査して、「問題なかった」と言った場合、その人が正直で一生懸命検査をする人というだけでなく、その人が正しい検査ができるかどうかも大事な要件だ。

圧力検査であれば試験圧力はいくらか、圧力保持時間は十分か、加圧媒体は使用条件と合っているか、加圧箇所(部分)は正しいか、検査方法(水をかける、石鹸水をかけるとか、そのまま目視するなど)は正しいかなどを知っており、それらが間違っている場合に、それを見抜く力量を持っていることが必要で、それが真実を見抜く力だ。