【前回の記事を読む】通説では信長に対して謀反を起こした光秀。しかし、あまりにも不可解な点が多く……

第一部 

3 本能寺の変が光秀の犯行だとするには不可解な光秀に関する事象

2 本能寺が襲撃されていた時に2里(8km)離れた場所(鳥羽)にいた光秀

光秀の家臣、斎藤利三の三男・利宗が甥の井上清左衛門に語り、関屋政春が書いた物に『乙夜之書物(いつやのかきもの)』という物があり、これによると、本能寺が襲撃されていた時に光秀は本能寺から2里(8km)離れた鳥羽にいたという情報がある。

このようなことがあるだろうか。謀反を起こしたら失敗は許されない。もし、失敗したら自身はもちろん、一族郎党が獄門・磔(はりつけ) になるのである。謀反に限らずすべての戦は状況に応じて臨機応変に対応しなければならない。また、裏切り者が出ないようにするためにも自身で指揮する必要があり、家臣任せにできることではない。

一方で、光秀が亀山城を出発する直前に森蘭丸の使者が来て、「上様(信長)が陣容を見たいと言っている」と伝えたという情報もある。

信長が陣容を見るといっても本能寺やその周辺では路地にうごめく兵しか見られないため、河原や原っぱで見せることになる。そのために自身は1万1千人の兵とともに鳥羽に控えたのだろう。そして家臣の斎藤利三に2千の兵をつけて本能寺に向かわせ、信長を鳥羽まで案内するよう命じたのだろう。

本能寺が襲撃されている時に光秀が鳥羽に控えたことについて、「本能寺の襲撃が失敗して信長を取り逃がした場合に備え、大坂に向かう途中で捕らえるため」と電波に乗って仰る方(かた)がいるが、本能寺から離れた場所で待てば、そこまでの間にいくつも迂回路があり、離れれば離れるほど信長を捕らえることが困難になる。

もし、本能寺を脱出した信長を捕らえたければ、本能寺のすぐ近くの、本能寺から20~30mとか、40~50m離れて本能寺を取り囲めば周囲440mの本能寺は何重にも取り囲むことができる。信長を取り逃がしたくなければ、誰だってそうするだろう。従って、「本能寺から逃げた信長を捕らえるため」という理由は考え難い。

本能寺が襲撃されている時に光秀が鳥羽に控えたのは、前述のごとく、光秀は謀反など全く念頭になく、自身の軍の陣容を信長に見せるべく、斎藤利三たちが本能寺から信長を案内兼護衛して連れて来るのを鳥羽の開けた場所で待っていたというのが真相ではないだろうか。

本能寺が襲撃されている時に光秀が本能寺に行かず鳥羽に控えた、この一件だけでも本能寺の変が光秀の犯行ではないといえるが、前項の「①本能寺の変の前々日に弓・鉄砲などを入れた長持ち百個を備中に送った光秀」と考え合わせれば、光秀に謀反を起こす気持ちは全くなかったと断言できる。