4 本能寺の変が光秀の犯行だとするには不可解な秀吉に関する事象
本能寺の変において、当時羽柴秀吉は備中(岡山)にある高松城で毛利軍と対峙していたと伝えられているが、そう考えるにはおかしな点がいくつかある。
1 本能寺の変の直前に畿内にいた秀吉
本能寺の変は6月2日の朝発生したが、茶人で信長の茶堂(茶道の師匠)だった千宗易(利休)がその3日前、5月28日に息子の少庵に送った書状※が大阪市内の実業家所有後京都の野村美術館に保管されており、これには
(追伸 上様[信長]御上洛との由、承わった。播州[秀吉]はどうなっているのか? 情報がわかり次第連絡を請う……)
と書かれてあるとのこと(井上慶雪氏著、『本能寺の変 信長の誤算』(祥伝社)より)。
この月(5月)は29日までしかないので、この書状は本能寺の変の3日前に送られたということだ。
当時織田家は秀吉が播州を、光秀が丹波を攻略し、これらを支配していた毛利にジリジリと詰め寄っていた。そして信長は秀吉を毛利攻略の総大将に任命し、歴史が通説通りであれば、秀吉は備中で毛利と対峙しているはずで、信長はその援軍として備中に向かうことになっていた。
こんなおかしな書状はない。秀吉は備中(岡山近辺)の高松城で毛利と対峙しているはずで、その半月近く前の5月17日に援軍の派遣を要請する書状を信長に送っている。信長の茶堂をしている宗易がそれを知らないはずはない。
また、その戦の状況など茶人である宗易が知りたいと思うはずがないし、もし、知りたいと思っても同じく町人で茶人であり畿内にいる息子に聞いてもわかるはずはない。
それにも拘わらず宗易は息子にこの書状を送っている。これはこの時(本能寺の変の直前)に秀吉が備中にはおらず、畿内で何かしていたことの証拠ではないだろうか。そして、もう一つ。その何かに千宗易も深く関わっていたことの証拠ではないだろうか。
※読売新聞のコラムにも掲載された、とのこと。
筆者も宗易が息子の少庵に送った書状を見たいと思い、野村美術館を訪ねてお願いしたが、「そのような物はない」と言われてしまい、原文は見ていない。
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