【前回の記事を読む】史上最も不思議な出来事の一つ「本能寺の変」―織田信長をその家臣の明智光秀が謀反を起こして討ったと伝えられているが…

はじめに

本能寺の変は明智光秀の犯行だが、その裏で糸を引いていた者がいた、と、光秀を操った者の存在を考察した見解や説が多数ある一方で、実は本能寺の変の3日前に秀吉が畿内にいた可能性を示す物があるのだ。

詳細は本文で述べるが、もし、そうだとしたら、備中高松城を水攻めしていたとか、毛利勢と対峙していたと伝えられる秀吉の行動について、通説は全く見当違いだったことになる。

秀吉はどうして備中高松城にいなくて良いのか。畿内で何をしていたのか。

実は秀吉は本能寺の変の前から、信長の許可なしで毛利と和睦を進めていたのだ。そして、本能寺の変の3日前に畿内にいたということは、その数日前には毛利と合意し、和睦していたと見るべきであろう。だから備中高松城にいなくても、毛利は攻めて来ないのだ。

しかし、これは信長に知られたら切腹ものだ。この時点で秀吉としては信長を殺害する以外に自身が生きる道はない。それなのにその信長の殺害を他人に任せていられるだろうか。

ここに、秀吉が本能寺の変の3日前に畿内にいた理由があるのだ。つまり、秀吉は裏で糸を引いていたどころか、自身の手で信長を殺害し、しかも、その罪を光秀になすりつけたのだ。

この事件の直後、秀吉は中国大返しと呼ばれる偉業を成し遂げたと伝えられる。

本能寺の変勃発時に備中(岡山)で高松城を攻めていた秀吉が6月5日から12日まで8日かけて200km離れた山崎まで駆けつけたと伝えられている出来事だが、