【前回の記事を読む】やはり、光秀に謀反を起こす気持ちは全くなかった。そうなると一番疑わしいのは羽柴秀吉ということに……

第一部 

4 本能寺の変が光秀の犯行だとするには不可解な秀吉に関する事象

1 本能寺の変の直前に畿内にいた秀吉

それだけではない。この書状は一般的には宗易が政治に関心を示すようになったと解釈されており、『信長の誤算』の著者も宗易が秀吉の情報をほしがっており、それを少庵が知る立場にあったと考えておられるようだが、この書状はそれだけに留まらない。

すなわち、少庵はただ単に秀吉との連絡係だったのではなく、秀吉たち一行を匿(かくま)ったのではないだろうか。もし、秀吉たちを匿(かくま)ったのが他の者だったら、宗易はそれが誰かを聞いておき、その人宛てに書状を送ったはずだ。

それに、もし、誰かに頼んで、「何のために?」と聞かれて、「信長に謀反を起こすため」などと言うわけにも行かず、秀吉たち一行を匿かくまうようなことは誰にでも頼めることではない。少庵は宗易の娘婿(むすめむこ)、すなわち身内だから頼めたのだ。

「なぜ、備中にいるはずの秀吉がどこでどうしているかを宗易が知りたがるのだ」と仰る方(かた)がいると思うが、そこが「味噌」なのだ。詳細は「5.①長過ぎる信長の奮戦」や「5.②明智家家臣と『信長公記』であまりに異なる本能寺襲撃時の様子」で述べるが、光秀の家臣が本能寺に着いた時には本能寺はすでに誰かに襲撃された後の様相を呈(てい)していたのだ。

もし、そうだとしたら、本能寺を最初に襲撃したのは誰なのか。信長が死んで最も得をした人物「秀吉」であり、信長が京都のどこかで茶会を開くように宗易が秀吉に頼まれて画策し、その場所や日時を急いで秀吉に連絡する必要があったと考えればすべてが噛み合う。