つまり、秀吉は畿内に潜む必要があり、自分と配下の者を匿(かくま)うように宗易に頼み、宗易はそのようなことを他人には頼めず、義理の息子の少庵に頼んだのではないだろうか。そして、その秀吉について「今どうしているか」=「すぐに連絡できる状況か」と問い合わせたのではないだろうか。

そして、詳細は「6.⑥タイミングが良すぎる島井宗室の動向」で述べるが「楢柴肩衝(かたつき)」の所有者である島井宗室が北九州から京に来ていたのも、6月初旬に北九州に帰ることにしたのも偶然ではなく、秀吉の策で、宗易を通じて島井宗室に頼み、そうすることになった可能性が高い(偶然だった可能性もゼロではないが、偶然にしてはできすぎであろう)。

これは一見突拍子もない話のようだが、詳細は次項「4.②本能寺の変以降の千宗易(利休)の異常な台頭」で述べるが、宗易は本能寺の変からわずか4年で秀吉の弟の秀長から、「内々は宗易に、公儀は秀長に」と言わるまでになっているのだ。

尋常な出世ではない。このことから、秀吉は千宗易に物凄い弱みを握られていたか、恩に着るようなことをしてもらったに違いないと考えるべきなのだ。

もし、前述のように本能寺の変の直前に少庵に匿(かくま)ってもらったり、上洛や帰郷を島井宗室に依頼し、そのおかげで本能寺の襲撃がうまく行ったとしたら、秀吉から見れば千宗易は天下取りの最大功労者だ。これが理由で一生(切腹を命じるまでではあるが)頭が上がらなくなったと考えれば、辻褄が合う。