第一部 信長の足取り

本能寺の変までの信長の足取りについて述べるが、詳しく書くとそれだけで数冊の本になり、切りがないので本能寺の変に関することに重点を置いて、かいつまんで述べる。

なお、信長の状況については通説通りなので、すでにご存じの方はこの章を飛ばしていただいても差し支えない。

信長が父信秀から家督を継いだ時、織田家は尾張の国主ではなく、尾張の一部の領主に過ぎなかった。そして、天文21年(1552年)3月、父信秀の死去によって信長が織田家の家督を継いだ後、織田大和守家、織田伊勢守家を滅ぼすとともに、弟の織田信行を排除して尾張の支配を固めた。

永禄3年(1560年)5月、駿河の戦国大名今川義元が上洛を始め、途上にある尾張国へ侵攻した。信長は籠城すると見せかけて城から討って出て、わずかな手勢とともに桶狭間で休憩中の今川義元を急襲し、撃破した。

この時の兵力については諸説あるが、2万5千の今川に対して織田は2千5百だったという説もある。

その頃から美濃の斎藤氏との関係が悪化したが、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が跡を継ぐと、信長方が優勢になる。

 

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