【前回の記事を読む】増水している川と泥道のある200kmを8日で突破し翌日に合戦勝利……? 秀吉の“中国大返し”の真実とは

第一部

4 本能寺の変が光秀の犯行だとするには不可解な秀吉に関する事象

6 梅林寺文書

秀吉は高松城を出発する前の5日に光秀の寄騎である中川清秀からどうするべきか問い合わせの書状を受け取り、これに「上様(信長)並びに殿様(信忠)は難を逃れ、膳所(ぜぜ) が埼に落ち延びた」との書状を返しており、梅林寺文書と呼ばれて現存している。

これは大変なことである。普通謀反を起こしたら相手を殺し、その首を市中に晒(さら)す。もし、相手が逃げても、そのままにしてはおけない。見つかるまで探して、殺し、晒す。

だから光秀が生きているのであれば謀反は成功しており、常識的に考えれば信長が生きているとは思わない。それなのにこういう書状を送ったら、受け取った側は、「秀吉は何を言っているのだ。信長様の首はとっくにどこどこに晒されておるワ。気でも違ったか。こんな奴に与(くみ)することはやめよう」となる。

従ってこのような書状を送るということは、信長の遺体が見つかっておらず、その後も見つからないことを知っているということだ。それは信長本人をどこかに連れ去った者にしか言えないことだ。

織田家の重臣や信長の息子たちがなぜこれを問題にしないのか不思議であるが、ひょっとしたら秀吉はそのように追及され、「あれは光秀の寄騎が光秀の味方をしないようにああいうふうに書いたのだ。ああいう書状を送って、もし無駄になっても元々ではないか。信長様が生きているか死んでいるかなど知っていたわけがない」などと言いわけをした可能性もある。

先に「秀吉は高松城を出発する前の5日に中川清秀からどうするべきか問い合わせの書状を受け取り」と書いたが、「4.①本能寺の変の直前に畿内にいた秀吉」で述べた通り、この時、秀吉は備中にはおらず、畿内で本能寺を襲撃していたのだ。

もし、中川清秀が備中に書状を送っても、秀吉の許には届かない。中川清秀の使者はどうやって中川清秀の書状を秀吉に渡すことができたのだろうか。

中川清秀は光秀の寄騎でありながら、身の振り方を光秀ではなく秀吉に相談している。これがそもそも不自然なのだ。このこと及び秀吉のしたたかさから、秀吉は中川清秀をかなり懐柔(かいじゅう)しており、何かあったら自分に相談するように仕向けていたのではないだろうか。

もっといえば、秀吉は自身が備中におらず、そちらに使者を送られたら不都合があることから、自分の配下の者を清秀の近くに仕えさせ、清秀からの書状を自身の配下の者が託され、自身に届けるようにしていた可能性もある。

そして、同じく光秀の寄騎である高山右近や筒井順慶らにも同様の書状を送ったと考えるべきであろう。

本件、この時備中にはおらず畿内にいた秀吉に清秀からの書状が届いたことから、何らかの画策があったと考える。