継体六年十二月の条で麁鹿火(あらかひ)の妻の言葉の中に「(任那諸国は)海表の防御の衝立」という表現もあります。
これが出来上がったきっかけは、我が国による韓半島南部の軍事的制圧で、時は、新羅と百済が成立した後であることから、四世紀後半から、五世紀にかけてと思われます。
物部麁鹿火の妻や、勾大兄皇子の発言から、この時期を書紀の応神天皇の時期と見ることもでき、古事記の応神天皇記にも新羅・百済との交流の記事があります。
四世紀後半から五世紀の初めは、南朝の宋書等に現れる、倭の五王と呼ばれる王たちの時代の始まりです。
「倭の五王」というのは、四一三年から五〇二年にかけて「倭国王」として中国南朝に朝貢したと、中国の歴史書(宋書など)に記述されていますが、我が国の古事記・日本書紀にはその記述がない、我が国の五代にわたる大王(讃・珍・濟・興・武)のことです。
そしてこの任那が存在した時期が、ちょうど倭の五王の時代に当てはまっているのです。
古代研究者の江上波夫氏(『騎馬民族国家』の著者)は四世紀から六世紀にかけて、古墳への馬具の埋葬が顕著であるとしています。
これは、応神を倭の五王の王朝の始まりの頃の大王に模したと見ることができるのです。おそらく倭国が、高句麗以南の韓半島の全ての地に対して、軍事的な優位性を持っていた時期があったのでしょう。
紀ではこれを神功皇后によるとしていますが、これは魏志倭人伝の影響と考えることもできます(神功皇后を卑弥呼に模した可能性もあります)。
このとき我が国は、それらの国々の王位を承認し、その代わりに我が国の政府機関を置くこととしたと、継体二十三年の条で、任那王(加羅王?)のコノマタカンキが述べています。
われわれは現在、高句麗の広開土王碑によって、再三再四、倭国が韓半島内で高句麗と戦っていたことを知っています。そしてこの四世紀末の時代は、我が国の倭の五王が出現した時代なのです。
【前回の記事を読む】「官家」は「官(つかさ)の家」なので「役所」。これを「みやけ」と呼ぶには抵抗がある