第一章 地方分権国家としての隆盛
二.任那(みまな)
一方、倭人伝には、「その北岸狗邪韓国に至る」とあることから、紀元前後に半島の南部に倭人と同種の人々が住んでいた国があったのも事実で、これが後の加羅国等でしょう。
「倭人伝」というのは西晋の陳寿による「三国志の魏志」にある「東夷伝・倭人の条」の通称です。
おそらく倭の五王の時代は、自らを都督と名乗っていたことから見て、中国に朝貢していた国として、中国の統治形態を熟知しており、国の統治に対する考え方が強かったと思われ、それまで小国が分立していた倭人の国々を纏(まと)め上げ、國造等を置いて羈縻統治(きびとうち)をしたのはこの時代でなかったかと思います。そのときに半島の国々をも、任那(ニンナ)として羈縻統治したと思われるのです。
羈縻統治というのは、「中国の王朝が周辺の弱小民族に対する支配政策として、その有力者を懐柔し自治を許して間接統治したこと」と広辞苑にあり、「羈縻」は馬・牛の鼻綱で、(使役する)という意味と諸橋大辞典にあります。
ちなみに、「任那」の「那」とは、諸橋轍次氏の『大漢和辞典』によれば、中国における西夷としての国名であったとあります。
「冉駹(ゼンボウ)」という二族のことであり、漢の武帝によって中国の版図に組み入れられたとあります。
一方、「那」には、「多い」という意味もありますので、これらから、「任那」は、「委任した西の方の蕃国達」と読めます。
このことからも、この命名が、いかにも南朝に朝貢していた、倭の五王の王権によるものであることを物語っているように思えるのです。又、訓読みのミマナとは、御(ミ・大王の)マナ(可愛い子たち)という意味でしょう。
さて、この軍事同盟が衰退して行ったのは、新羅や百済の国力が増したことや、以前のような高句麗の南進圧力がなくなったこともあるでしょうが、官家に派遣されていた倭国人と我が国の実力者の間での利権追及の結果と思わせる記述が継体紀などに散見されます。