これは我が国の王権の衰退(群卿といわれるものたちの台頭)とも歩みを同じくしているのではないでしょうか。

秦韓・慕韓

宋書等に見られる安東将軍・倭国王の都督としての管理範囲に、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の六国とありますが、任那と加羅を分けているのは、加羅の国力が他に抜きん出ていた(或は倭国にとっての重要度が高かった)ためと思われます。

この管理範囲に百済が入っていないのは、百済が宋に直接朝貢し、将軍として認められていたからでしょう。ちなみに秦韓・慕韓は、秦韓が新羅の北西で、もともと辰韓(秦韓)といわれた地域の新羅を除いた地域で、慕韓は慕州といわれた平壌あたりの地域を指すと思われます。新羅・百済と高句麗の間の地帯です(或は、高句麗の領土内)。

これを都督の管轄下に入れることにより、中国の南朝が高句麗の南進を認めていない証しとし、又、倭国の高句麗との戦いの正当性を主張したのです。

即ち高句麗を除いた韓半島全体から、百済・新羅を除いて、その他の地域の北の部分を秦韓・慕韓とし、南の部分を任那と呼んだようです。

欽明二十三年春正月の条で、新羅が任那の官家(安羅の倭府:紀では日本府)を打ち滅ぼしたとありますが、この事件はおそらく聖明王の没後と思われ、六世紀の前半のことでしょう。

舒明九年三月二日の条に次の記述があります。これは上毛野君形名将軍が蝦夷に敗れ、兵にも逃げられ、本人が逃げ出そうとした時に、妻が言った言葉としてあるものです。

「なんと情けない、蝦夷に殺されそうになるなんて」と嘆き、夫に「貴方の先祖は青海原を渡り、万里を越えて水(海)表を平定し、強大な武力で統治し、後の世につなげてきたのです。今、あなたが敗れて屈してしまえば、先祖の名が、まさに後世の笑い者になってしまいますよ」(著者訳)

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