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(二)

保はその頃ソ連軍医フェルチェンクウからフェルチャーに昇格という命令をもらった。フェルチャーはドクター助手とでも云うか有難いのは今迄の黒パンが白パンになり、たばこの配給が増し、二十ルーブルの給料が与えられ、白い上被りが着られる事である。

保は捕虜が捕虜の為に働いてよい地位が与えられるのだ、これからは日曜も患者が来たら仕事しようと決心したが、保よりも階級が上である軍曹の大川が休みは休みだと主張するのに反対し、どうせお互い捕虜だ、休みも何もあるものかと押し切り、大川も渋々日曜に出て来たが遂に無理が祟ったのかマラリヤに罹り、四十度の高熱に呻吟する身となってしまった。

春とはいえ夜は零下二、三十度に下る酷寒に汗を流し、鼻息荒く呻く彼にあんなつまらぬ事で云い合いする前に病気になればよいのにと恨めしく思い乍ら医務室前の凍った雪を靴先で蹴割り、ベッド上の天井から吊した彼の水嚢が瞬時に温くなるのを翌朝迄冷し六病棟へ入院手続きをとった。

それでも彼は長すぎるオーバーに寒そうに肩をすくめ星章の戦闘帽を被ってふらふら病院へ出て行く時、保のポケットにこちこちになった黒パンを三つ四つ押し込んで行った。何時か地面に凍てついた氷が漸く温みの感じられる太陽に溶かされ此処彼処でピーンピーンと気持よいひび割れの音を響かせ始め、うすくなった氷を剝ぐと可愛らしい青い若芽がもどかしげに頭をもたげる様になった。

捕虜達は再び己が身のカラカンダ行を心配しつつ、シューバー1)の返納に忙しく作業隊は畠の畝作りの帰りにはうら山から色とりどりの石を持ち帰ってくる。メーデーの準備である。

此処スパスクは五十年前英国人探検家に依り発見された鋼山があり英人が経営していたが、革命の時総て殺され、彼等の収益は赤煉瓦造りの一、二病棟として残り、あとは精煉所も破壊され、当時のせい況はその夥しい各色の石の様な鉱滓として跡を留めているのみである。

メーデー前に各バラック前の花壇を各種の石で技巧をしソ連的に飾り立てたのがその年のメーデーの入賞者となるのである。我が医務室もスターリン万才と赤石でロシア語をはめ込み脇に赤い星をあしらい、鎌とハンマーを黄黒石でと決め、仕事の合間を見ては日独両国でせっせとかがみ込んで痛む腰を伸ばし伸ばし、石を並べていた四月末のある日、NKVD2)のルーマニア人伝令が保を呼びに来た。